何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

「女の呼ばれ方」について考えてみた。

先月、鳥取県知事が小池都知事を「おばさん」と揶揄するような発言をしました。「敬愛の念を込めた」などと、取ってつけたような釈明をしていましたが、混乱を招いたとして発言を撤回し、議事録から削除されたようです。この一連のニュースを聞いて思い出した、かつて私の身に起きたことを書いてみます。

ふきのとう画像

とうが立った裏庭の「ふきのとう」(4/1撮影)

植物園の【了解おじさん】

青森県は弘前市から、縁あって秋田県央のとある郡部に嫁に来て、この春で丸24年になります。

30代の終わりかけ、40の大台まであと数年という時期に「初婚」という、超晩婚でした。それでも幸いなことに、子供を二人授かりました。下の子を産んだのは41歳の時でした。

事情を知らない人が傍で見れば、幼い子供を連れた私は、孫を連れたおばあちゃんに見えたかもしれません。

娘が2歳くらいの頃、隣町の道の駅にある植物園に散策に行きました。

少し離れた距離にいた見知らぬ中年男性が、すれ違いざまに突然、私に向かって大きな声量で明るく声をかけて来ました。

「なんぼ若い、ばあ様だ!」と。

悪気が全く無いのは理解できました。何なら誉め言葉のつもりだったのかもしれません。私は一瞬だけ間を置いて笑顔を作り、彼と同じ位の音量で明るく返答しました。

「歳取ったお母さんだよ!」と。

男性は、片手を上げて一言「了解!」とだけ言って、明るく去って行きました。

言い訳もなし、謝罪もなし。潔いと言えば潔い。

逆に、言い訳や謝罪がなかったのが、私の精神衛生的には「不幸中の幸い」だったかもしれません。私は歳は取っていましたが、二人目の子供が欲しかったのです。でも、いつの日かこういう事態が起こるかもしれない、と想定はしていました。

想定内とは言え、実は思った以上の「ダメージ」が後で来ました。

それを緩和するために、ちょっと滑稽ながらもほろ苦いこのエピソードを、私は親や友達に嬉々として語りました。

もう、ネタとして自分で自分を笑い飛ばすしか「中和」できませんでした。

「あねさん」から「かあさん」への降格?

秋田に嫁いだばかりの30代後半の頃、うちを訪ねてくる人は、私を呼ぶ時に「あねさん」と呼んでいました。そういう「方言」なんだなー、と好ましく思っていました。

けれども子供を二人出産して、増えた体重もなかなか戻らず、育児疲れもあいまった私に「所帯じみた感じ」や、ある種の「貫禄」が付いたのでしょうか?

下の子を産んでからは、いつの間にかよそからの呼ばれ方は「かあさん」に変化していました。

明らかに私より年上の、おじいさんおばあさん達からも「かあさん」と呼ばれ、なんだかなーと思いました。そういう「方言」なんだろうけどさ……とモヤモヤしたものです。ま、一種の「記号」と考えれば救いになるのでしょうか?

そして、この地で暮らしているうちに徐々にわかってきたのは、たとえ実年齢が高くとも、若く見えるような美しい女性は、変わらず「あねさん」と呼ばれているということでした。

ガーン!

外見の総合評価が、呼びかけ一語に圧縮・集約されているのです。

【秋田美人】のお国柄

やはり秋田にはハッとするような美しい方が多く、女性の見た目への眼は肥えていると思います。

長年培ったその審美眼が、目の前の女性を無意識に査定して「あねさん」と呼ぶべきか?「かあさん」と呼ぶべきか?、瞬間的にラベルを貼っているのかと思います。

ラベリングされる身にとっては、「私にはあなたがこう見えています」という現実を、無残に知らされる通知です。正直に言うと、そんな通知は欲しくないです。笑。

多分、呼ぶ側には悪気はないのです。むしろ【了解おじさん】と同じようにフレンドリーで、心理的な距離が近く、親しみの情が込められている可能性があります。

私が生粋の秋田人であれば、疑問にも思わず、モヤモヤしなかったかもしれませんが。

某銀行の窓口にて

こんなこともありました。ダンナに頼まれて定期預金を解約しに、銀行に通帳を持って行った時のこと。某銀行の窓口で私は「おかあさん」と呼ばれたのです。え?

通帳の名義人は男性名。窓口に来たのは女性の私。

最初は「息子さんの通帳ですか?」と聞かれました。そんな大きな子供がいても不思議ではないように見えたことにも軽いショックを受けました。

ダンナの通帳であることを伝えても「おかあさん呼ばわり」は続きました。通帳に苗字は書いているのだし、金融機関として客の苗字ではなく「おかあさん呼ばわり」はどうなの?と、内心では悲しく、腹立たしく思いました。

本当にこんな対応をする銀行がこの世にあるのか?苗字で呼ぶのがイヤなら、せめて「奥さん」と呼べないものか?とモヤモヤして、落ち込みもしました。

大叔父の、完璧な一刀両断

話は少し変わりますが、私の母方の大叔父夫婦には子供がいませんでした。

ある時、彼らの家に飛び込みのセールスマンが来て、大叔父に「おとうさん」と呼び掛けたのだそうです。

真面目で頑固な大叔父は「うちに子供はいない。だから私は『おとうさん』ではない!」と言い放ったそうです。それを聞いたセールスマンは何も売らずにそそくさと帰ったそうです。ひゃ~。

あの愛想のない顔でガツンと言ったのだろうな?と思うと身内でもビビります。笑。

私には、この大叔父と同じ血が流れていると確信します。

赤の他人から「かあさん」呼ばわりされるたびに(なんだかなー)と思います。

私の住んでいるこの地域は、見た目の印象で呼び方が自動的に決まる風習の土地柄なんだろうと諦めてはいます。そして、更けて見える自分のせいなんだろうなと、正直落ち込みもしました。

ちなみに、西洋の場合

英語圏やフランス語ではどうなのか、ネット検索で調べてみました。

知らない人に話しかける時、呼び掛ける時には Excuse me! だけで済ませることが多いみたいです。

○英語圏では→ 男性 Sir/女性 Ma'am (サー/マム)は敬称

○フランス語→ 男性 Monsieur/女性 Madame (ムッシュー/マダム)も敬称

どちらの言葉も、年齢や外見の情報を含まないそうです。20歳でも70歳でもSirはSir、MonsieuはMonsieuなのだそうです。

例えば日本語の「おばさん」のように、年齢カテゴリーで呼ぶ文化は西洋には薄く、むしろ失礼とされることもあるそうです。

年齢のカテゴリーや外見の特性で呼び方を分けないのは日本語にはない発想で、なんだかうらやましい慣習です。

そもそも、日本語には一般人の相手に対して、失礼のないように呼び掛けるような中立的な語句は、最初から無いように思います。考えても思い浮かばないもんな~。

一般的に中年の第三者に呼び掛ける「おじさん」「おばさん」、あるいは私が住んでいる地域の「とうさん」「かあさん」の呼称。その呼称には、実際に呼び掛ける側から見た、相手の年齢や外見を無意識に査定した結果が乗っています。

私の言い訳

このブログ内では、私を「若いばあ様」認定した中年男性を【了解おじさん】と呼んでいます。呼称でくくられることへの違和感をつらつらと書いていながら、書き手の私自身も同じことをしているのかもしれません。同じ穴のむじな?自家撞着?

ただし、その男性に向かって直接口に出して「とうさん」と呼び掛けたわけではなく、過去の出来事を説明するために、その彼を仮に【了解おじさん】と命名して呼ぶのは、ギリギリセーフということでお許しいただきたいと思います。真面目か!笑。

 

私は本当は「大叔父」みたいな面倒な人間です。でも、現実生活で面倒くさい人とは思われたくないので(笑)、ひどいと感じる呼び方をされても、大抵のことは作り笑顔で飲み込んでいます。

私は気が小さくて、器も小さい人間です。相手に言い返せない分「腹ふくるる思い」が知らず知らずのうちに積み重なっていたようです。

過ぎたこととフタをして忘れていた記憶が、鳥取県知事の発言に端を発して、芋づる式にまとまって思い出されて来ました。忘れてなかったなんて、ヒマ人ですね。

で、せっかくだから言語化して、このブログにまとめているのです。

津軽弁では、こういう性格を「ねっちょ深い」と言います。執念深いって意味です。当意即妙にその時その場面で切り返せればよかったのですが、なかなか難しいです。

還暦を過ぎて…

ただし「還暦」を過ぎた今なら、人から「かあさん」と呼ばれても、まあ妥当である、と思えるようになりました。シワも増えちゃったし、フレッシュでは無くなったし。笑。ここまで思えるようになるのに、なが~い時間がかかりました。

あの時、植物園に連れて行った娘はもうすぐ二十歳になります。目には見えない「年月」がそこに具現化されています。ホント、私も歳を取ったものよなぁ~。

最早どこから見ても、秋田で言うところの正真正銘の「かあさん」ですわ。とほほ。

仮面ライダーの記憶/その➁ in あいのり温泉

かつて、青森県の碇ヶ関村(現平川市)にあった「あいのり温泉」。ある年代以上の青森県人にとっては懐かしいコマーシャルソングも、今の時代ならネットで探せば聞けます。今回は幼い頃、そこで仮面ライダーに会えたお話です。

ナショナルお客様感謝祭

家電メーカーPanasonic(パナソニック株式会社)は、昔は「ナショナル」(旧松下電器産業)という名前でした。

私が幼い頃は、いわゆる「家電量販店」という販売方式はまだ無く、「町の電気屋さん」として各メーカーごとに専門の小売店がある感じでした。

我が家では、父が「ナショナル」製品を絶大に信奉?していて、家電を買うとなるといつも同じ「ナショナル」取り扱いの電気店で購入していました。

♪ あっかる~い ナッショナ~ル  あっかる~いナッショナ~ル

   み~んな~ うっちじゅう~  な~んでもっ ナッショ~ナ~ル~

どこのメーカーを「推す」かは各々の家庭によって違えども、当時は家電を「町の電気屋さん」で買うのが一般的でした。

前回の(笑)、東京オリンピック開催の1964年(昭和39年)に、私の父と母は結婚しました。そして結婚して3年程経った時にようやくナショナルの「電気炊飯器」を買ったそうです。

このブログを書くに当たって、当時のことを母に尋ねたら「鍋でご飯を炊くより、楽で楽で…」と言ってました。その炊飯器は結局、2003年頃(!)まで使っていたそうです。35年もったのか、もたせたのか…。ま、いい加減早く買い替えなさいよ!って話ですけども。

さて、これから書くのは1972年か73年のことです。恒例の「今は昔」のお話です。

当時、毎年同じ時期になると、いつもの電気店さんから「ナショナルお客様感謝祭」(←名称は不確かです)という、顧客向けのイベントの招待状をいただきました。

あいのり温泉のこと

♪ いっちど~ おいっでよ~、あ~いの~りお~んせん~っ (チャンチャン)

その時の「ナショナルお客様感謝祭」は、上記の歌い文句で青森県ではおなじみだった、青森県南津軽郡の碇ヶ関村にあった「あいのり温泉」で開催されました。

ネットで「相乗温泉」を検索してみましたら、1955年に開業し、1971年に6階建ての本館が建設されたのだそうです。おぼろげな記憶をたどれば、確かに当時は新しくて立派な建物でした。

そしてその時の「ナショナルお客様感謝祭」の「目玉」は、当時テレビで大人気だった仮面ライダー1号のショーでした。

当時の資料をネットで探し出して、フリーハンドで再現してみました。左の太陽みたいなところに書いてある文字がうやむやなのは、資料自体が鮮明でなく推測だからです。笑。

あいのりロゴ画像

▲あいのり温泉1988年頃のロゴマークの模写

私が仮面ライダーショーを見た当時は、赤い所に書いてある太陽みたいなマークだけだった、と思います。

この、カモノハシ?の親子がキャラクターとして追加されたのは、温水プールにウォータースライダーが導入されて1988年にリニューアルをはかってからのマークだと思います。「あいのり温泉」は一時期、テレビCMもガンガン流れて、人気のレジャー施設だった印象があります。私は「感謝祭」以来行ったことがなかったですけれども。笑。

仮面ライダーにサインをもらう!

「ナショナルお客様感謝祭」は新商品の展示会の側面もあったような気がしますが、私が記憶しているのは、母と見た「仮面ライダーとショッカー」のショーだけです。

客席のテーブル前にわずかに据えられたステージの袖から、仮面ライダーの主題歌に合わせて仮面ライダーが出て来ました。録音されたセリフが流れ、一緒に出てきたショッカー2~3人?とお約束みたいな立ち回りをして、仮面ライダーが勝って終わりました。地球の平和は守られました。笑。

このイベントはよくあるタイプの、身も蓋もない言い方ですが、文字通り「子供だまし」みたいなショーだったかもしれません。でも、集まっていた子供たちは「ブラウン管」の中のヒーローが自分の目の前で活躍していることに興奮していました。

ショーが終わってから、仮面ライダーからサインをもらえることが発表され、子供たちは大歓声を上げました。たくさんの子供たちの並ぶ列に私もドキドキして並びました。

主催者側で用意した白いプラスチックの下じきには、原作者の石森章太郎先生の、劇画タッチで躍動的な仮面ライダーのイラストが印刷されていました。

そして、その下じきの空欄に、今しがたステージで戦っていた仮面ライダーがパイプ椅子に座り、黒い油性ペンを使って、スピーディーな文字で「仮面ライダー」と書いていました。自分の番になった時、私は左後方からサインしている仮面ライダーをじっくり観察していました。

ライダースーツの素材が結構ぶ厚い革素材であること、仮面というよりは頭部はヘルメットでプラスチック素材?であることをじっくり確認していました。スーツの後ろにはファスナーがあったかもしれません。

そして仮面ライダーのヘルメットの後頭部の下側から黒くて縮れたおくれ毛が見えることにショックを受けました。中に人が入っているのだな~と思い、少し「現実」に戻りました。ちょっとした秘密を見つけたような、愉快な気持ちもあったと思います。

仮面ライダー後頭部画像

▲私が仮面ライダーを見た角度のイメージ

後年ラジオで、三宅裕司さんが仮面ライダーショーのショッカーのバイトをした話などを聞いた時に、「あいのり温泉」でのことが浮かんだりしました。

中の人、厚い革のスーツの中は汗だくで呼吸も荒い中、懸命に練習したであろうサインを書く作業を延々と続けて、大変なバイトだったと思います。お疲れ様でした。

下じきのその後

仮面ライダーから書いてもらったサイン入りの下じきは、上の方が飾り棚っぽくなっていた食器棚の上の方に長らくしまっていました。

でも、1991年(平成3年)の台風19号 (いわゆる「りんご台風」)をきっかけに、次の年の春に親が借金返済のため住んでいた地所を売却し、家を取り壊わすことになりました。不用品を処分していた時にこの下じきを見て、急にアホらしくなって捨ててしまいました。

ああ、取っておけばよかったな、せっかくの下じき!

後悔先に立たず。自分がこのネタでブログを書くことになるなんて、想像できなかったもので…。笑。

多分1972年頃かな?と思う理由

ちなみに、1972年は5月に沖縄の本土復帰が決まったり、9月に日本と中国の国交正常化の共同声明が出たりしました。当時小学2年生だった私には、それらが日本にとってどれほど重大なことか、よく分かりませんでした。

なぜかその二つの出来事の当日に、通っていた小学校で授業は二時間だけで終わらせて、全校生徒が早退できました。お祝いのためにだったのでしょうか?突然、みんなで早く帰れたことがとても嬉しかったのを覚えています。

それが、弘前市内の小学校全部のことだったのか、私の母校だけのことだったのか、今では知る由もありません。何だか不思議に感じます。

1年に2回、ラッキーにも学校が早く終わった嬉しい記憶と、間近で見た仮面ライダーの衝撃の後ろ髪の記憶が同じ時期だったような印象が残っているので、「あいのり温泉」での仮面ライダーショーは1972年か、もしくは次の年の1973年の出来事だった気がするのでした。ま、どっちでもいっか。笑。

仮面ライダーの記憶/その①  浅間山荘事件の日

「仮面ライダー」と「浅間山荘事件」。この二つがなぜ並ぶのか?そう怪訝に思う方がいても当然です。これは私の中のテレビについての個人的記憶です。子供時代の記憶ってヤツは…という、いつもの「今は昔」の昭和の話です。

仮面ライダー ミニチョコマシーン

仮面ライダーマシーン画像

▲仮面ライダーミニチョコマシーン 

このマシーン、パート先のスーパーの「バレンタインチョコ【特設】売り場」で見つけて、購入しました。税込価格は990円。他に〈ウルトラマンタイプ〉や〈ゴジラタイプ〉もありました。

前々から「仮面ライダー」に関わる、昭和の超個人的記憶について書きたいなぁと思いつつ、アイキャッチになる画像もないことを気にかけていました。さりとて、以前の記事の「ガーコ」の時のように、一から切り絵を作るのも時間がかかるし…と思っていた矢先の、仕事中の「仮面ライダー」発見です。

これだ!と思って買っちゃいました。もちろん、仕事は真面目にやらせていただいておりますとも。笑。

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背面画像

▲チョコマシーンの後姿

チョコ画像

▲「TURN」レバーをひねるとチョコが出ます。

60~70年代・青森県のテレビ事情

1965年生まれの私が物心ついた頃の青森県は、民放のテレビ局と言えば、日本テレビ系の「青森放送(RAB)」ただ一つでした。つまりテレビ局はNHK総合と教育と日テレだけの3つだけでした。

ネット検索してみたら、1968年にはTBS系のテレビ局「青森テレビ(ATV)」が開局していたようですが、我が家にはまだ青森テレビを見るための「UHFアンテナ」とUHFに切り替えるためのチューナー(?)がなかったので、実質的には、民放は日テレだけでした。

初代仮面ライダーのこと

初代仮面ライダーは「東京」では(笑)、1971年4月3日から放送が開始されたようです。

ネット検索によると、放送局は当時NET(現テレビ朝日)系列だった毎日放送(MBS)で、毎週土曜日19時半~20時に放映だったとか。第一回目のタイトルは「怪奇蜘蛛男」。

一方、当時の青森県ではどうだったか…。

昨年秋の帰省の折、弘前市立図書館2階の調査室で、地元紙東奥日報の縮刷版で確認しました。青森県での「仮面ライダー」は、全国放送から9日遅れの4月12日の月曜日、夕方6時からの放送開始でした。

今では「ニュースevery.」の時間に、です。信じられませんけれど。笑。

他に娯楽も少ない、田舎のテレビっ子だった小学一年生の私は、全国放送から一週余り遅れているとは知る由も無く、「仮面ライダー」を毎週欠かさず夢中で見ていました。

1972年(昭和47年)2月

「仮面ライダー」が始まった次の年の1972年は、アジア初の冬季オリンピックが札幌で開催された年です。

私の中では札幌オリンピックと言えば、「日の丸飛行隊」の笠谷選手や、フィギュアスケートで転んでもニッコリ笑ったアメリカ選手のジャネット・リン選手のイメージです。古ッ!

トワ・エ・モアが歌った「虹と雪のバラード」。いまでもラジオ等で聞いたり、札幌の地下鉄の駅構内で発車を知らせる「虹と雪のバラード」のメロディーを聞いても、なんだか胸が熱くなります。古き良き時代から、アップデートが完全に止まっていますね。笑。

そして1972年当時、実家のテレビはまだ白黒でした。

隣に住んでいる幼なじみのあっちゃん(仮名)という女の子のご両親、A先生ご夫妻はお二人とも教師でした。オリンピックを楽しむためか、お金持ちだったためか、既にカラーテレビを購入済でした。

せっかくだからとお声をかけられて、我が家全員が招待され(笑)、カラーテレビで一緒に開会式を見ました。画面に映った札幌の明るい空の青さが今も印象に残っています。

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あれから54年後(笑)の、2026年。

今年のミラノコルティナオリンピックも、私は主にフィギュアスケートを楽しんで見ました。日本選手の団結力と仲の良さ、りくりゅうペアや坂本選手など、皆さんの美しい演技や人柄が偲ばれる素晴らしいエピソードの数々が印象に残りました。

浅間山荘「鉄球のあの日」

札幌でオリンピックが開催された直後の2月下旬に、長野県軽井沢の「浅間山荘」で、日本赤軍残党による、人質立てこもり事件が発生しました。

その当時はまだ小学一年生だった私。何が起こっているかは全く分かりませんでした。分からないながら、雪の中、寒そうに見える山荘に向けて、盛んに放水している映像をニュースで見た記憶もあります。子供ながらに、不穏な空気を感じていました。ネット検索調べでは、立てこもり事件は2月19日から28日に渡ったとのこと。

図書館で読んだ当時の東奥日報によると、前日の27日午後から救出作戦が始まったようです。激しい銃撃戦を経て、最終的に人質を救助するために、警察が強行突破を敢行。クレーン車で吊り下げた巨大な鉄球で山荘の壁を破壊し、機動隊が突入して、犯人を捕まえて、事件はようやく終息したようです。

この事件では警察官が二名、民間人が一名が犠牲となったそうで、痛ましいことです。

山荘の窓から「白旗」が振られたことも記憶に残っています。そして、母にその「白旗」の意味するところを聞いた記憶もあります。

このたびの検索で初めて知りましたが、犯人が振ったと思っていた旗は、犯人の投降の降参を意味する「白旗」ではなく、犯人の制圧や人質確保で現場が制圧下に入ったことを伝えるための機動隊の合図だったようです。スマホもない時代の命がけの伝達方法だったのかもしれません。

あの、最後の決戦の日はちょうど「月曜日」でした。

28日の夕方、「鉄球が山荘の壁を破壊」する様子がテレビで生中継されていて、我が家では両親がテレビにかじりついて真剣に見ていました。

私はその事件の報道よりも、いつも月曜日の午後6時から放映される「仮面ライダー」が見たかったのです。「ねぇ、ねぇ、仮面ライダーの時間だよ。チャンネル変えてよ~」としつこくダダをこねていたのを覚えています。

そんな私に父はイライラし「(# ゚Д゚) だぁ~ちょっ!」(黙っていろ!)とドスの効いた声で私を怒鳴りつけました。それが本当に怖くて悲しい気持ちだったのを覚えています。今なら父のその怒鳴った気持ちは理解できますが…。

あの寒い時期の目の前の重大事件の終盤でしたから、各局のどこのチャンネルでも生中継していたと思います。

偶然にも、人質となった管理人夫婦の奥さんのお名前が、私と同じ「ヤスコ」さんだったことも、この事件が子供心にも怖い事件として印象に残った原因なのかもしれません。

その後、色々なテレビ局であの鉄球の映像と共に「浅間山荘事件」を振り返るような番組が放映されるたびに、私は自動的に「仮面ライダー」見たさに父親にダダをこねて叱られたことを思い出してしまうのでした。

次回は、別の「仮面ライダー」のお話をしたいと思います。

※チョコマシーンは公式ライセンス商品ですが、本記事は公式とは無関係の個人ブログです

自作「市松人形」その⑥/完結編

憧れの人形作家・辻村ジュサブローさんが、NHKテレビで語っていた創作の手法を、古い記憶をたぐりつつ、ちょっと紹介します。

京都物産展で買ったはさみ

箱写真画像

▲はさみの外箱の写真

箱を開けてみるとこんな感じです。

箱を開封した画像

▲菊一文字謹製「御絹はさみ」としおり

京都市中京区の刃物のお店、京打刃物司「菊一文字」の物です。購入した2000年前後の価格で、3800円(税別)でした。105mmのはさみで、何故にこんなに高いのか?

本体についているシールの「てづくり」だから、という理由もありますが、刃先に特徴があるのです。それは、こちら↓

刃先の画像

▲上向きに反っている薄い刃先

あんまり伝わらないか。笑。

はさみの刃先が軽く上向きに反っているのです。職人の手仕事による「はさみ」。これを当時、青森・松木屋百貨店の催事場で見つけた時は小躍りするような気持ちでした。

ジュサブローさんが使ってたはさみと同じ物だ!」と。

たびたび同じことを書いてくどいのは承知ですが(笑)、閉店した松木屋の「京都物産展」は、このような素晴らしい「道具」にも出会えるような、イベントでした。

はさみ全形画像

▲クツワの登録商標刻印つき「握りはさみ」

辻村ジュサブローさんのこと

私は手芸好きの母の影響で、NHKの手芸番組「婦人百科」を子供の時から見ていました。この「婦人百科」は時代に合わせて、タイトルや内容のリニューアルを重ね、一時期は「おしゃれ工房」、そして現在は「すてきにハンドメイド」という番組になっています。

その「おしゃれ工房」の時代に、あの人形作家の「辻村ジュサブロー」さんが干支の人形の作り方を教えていらした回がありました。当時のテキストブックによると、放送は1998年1月でした。1998年の干支・寅年にちなんだ小さな虎のお人形を、丁寧に教えていらっしゃいました。

手法は違えど、私自身が干支を題材に「石粉粘土」で立体の制作をしていたのもちょうど90年代だったのでタイムリーに感じ、テキストを買って真剣に拝見しました。

 

この番組内であったか、あるいは別のジュサブローさんのドキュメンタリー番組であったか、しかと覚えていませんが、NHKで流れた番組の中で、ジュサブローさんは刃先が反ったこのような握りはさみをお使いでした。

私は以前より、ジュサブローさんのあの人形たちの顔や体の、ちりめん生地はどうやってぴったりと貼りつけられているのだろうと疑問に思っていました。

その方法は、ちりめんを前もって水で濡らしてわざと縮めてから、改めて伸ばしながら接着していくという手法でした。(注:記憶が間違っている可能性もあります)

水に濡らして縮めた生地でも、曲面に貼り付ければ生地は多少余ります。そんな部分なんて最初から無かったように滑らかに切り取ることが必要です。その時に、切っ先の反った薄い「握りはさみ」が重宝する、という意味のことをジュサブローさん出演の番組でおっしゃっていたかと記憶しています。

それは私が一番知りたかった、ジュサブローさんの「企業秘密」でした。

私はそれを真似て、実際に生地を濡らし縮め、本体に添わせながらボンドで接着し、生地の余分は松木屋で手に入れた、先の反った握りはさみを使って切る、という方法を自分の市松人形の顔にぶっつけ本番で実験してみました。

実際に自分が使った事例

この下の写真の人形の右首にある傷は、「ジュサブロー方式」(←勝手に命名)を用いて、この握りはさみでで余分な布をカットした名残です。

私が使った生地はちりめんではなかったものの正絹の布で、少しばかり縮みました。だからこの顔面の面積に対して、継ぎ目はこれくらいで済みました。いわば、縫わないダーツのようなものです。

一般的な真っすぐで分厚い握りはさみとは違い、薄くて反っていて、とても使いやすかった記憶があります。使い勝手がよかったので、お値段が高いのも頷けます。

30年近く前の値段ですから、今ならこの時よりもお高いかもしれませんが。

継ぎ目の画像

▲顔と本体の継ぎ目と、余り布を切った痕

NHK人形劇「新八犬伝」

私が辻村ジュサブローさんの人形を初めて見たのは、NHKの連続人形劇「新八犬伝」が最初です。1973年(昭和48年)の4月からNHKで放送された連続人形劇でした。

当時はオイルショックの頃で、しかもビデオテープは高価で貴重だったため、NHKでさえ上書き使用していたというのです。ちょっと~、なんてことを!

当時のNHKは、現在のようにアーカイブで残すという発想がなかったようです。昭和時代の貧しかったエピソードです。

芸術的で革新的な人形の素晴らしい人形劇だったのに、一部を除いて残っていないとは、本当にもったいないことです。

家族が「NHKクロニクルシリーズvol.4『新八犬伝』」を持っていますが、このDVDに収録されているのはたった3回分。私が見たかったシーンは収録されていませんでした。あの頃は一般家庭にビデオデッキも普及していない頃でしたし、時代が悪かったです。

最後におまけの写真を2つ

①爪切り

お高い握りはさみを買ったら、お店の人が「粗品」的に下さったお店オリジナルの爪切りです。一見よくあるタイプのレトロな形状ですが、さすが老舗刃物屋クオリティー。使用感は段違いです。

自分専用にして、他の家族から使われないように隠しています。ヒヒヒ。

爪切りの画像

▲菊一文字さんよりいただいた爪切り

➁年賀状に貼ったシール

「市松人形」その①で紹介したはがきに貼った、シールの残りが出て来ました。当時仕事で使っていたMacG4で制作。しかも当時、既に時流に乗り遅れたイラストレータ8.0を使用。時代感よ。笑。

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年賀状は、時間に余裕があれば現像所で文字を白抜きしてもらいましたが、前年の羽子板の時にイラストレータ8.0で作ったシールでイケたので、この時もシールにしました。費用的にも助かりました。

ちなみにセロテープの経年劣化は こうなりますよ。笑。

シール画像

▲馬子にも衣裳のシール

これで、市松人形の話は終わります。

自作「市松人形」その⑤/着物編

一月中に更新を終わる予定だった「市松人形」の記事。毎年、重機で雪かきに駆けつけてくれる近所のおっちゃんは、体調不良を告げた後、全く姿を見せません。大丈夫かな?そうこうしているここ半月のうちに、雪もだんだん消えて、春の訪れを予感させる気候になっています。でもまだ二月。北東北(トーホグ)だもの、油断はできません。

本の型紙で作った着物

着物画像1

▲着物の画像/1

着物の作り方や、着物の部位の呼び名もわからない状態でした。だから頼みの綱として参考にした人形作家・土田早苗さんの『四季の手作り人形』(世界文化社)という本に掲載されていた着物の型紙をコピーし、サイズも同じに作ってみました。

ミシンを出すのも面倒だったし、縫い直しがしやすいかな?と思って、手縫いにしました。

着物に使った生地のこと

この本には一般的な大きさの風呂敷一枚を裁断して作る型紙が載っていました。本には絹(または化繊)の風呂敷67cm×66cmを1枚、と書かれていました。

「午年」にふさわしい柄で、作りたい着物の寸法に合った小さめの柄のある風呂敷は、前もって購入していた中から選びました。実は私、可愛い柄の風呂敷を無駄にたくさん持っているのです~。

このブログでたびたび登場の、今は閉店した青森市の百貨店「松木屋」の「京都物産展」に出店されていた生地屋さんで、毎年新しい柄の風呂敷を購入していました。

風呂敷として使うのではなく、「いつか訪れる何かを作る時の素材」として、と自分に言い訳して購入。「いつか」は訪れず、今現在も風呂敷のまま保管されていますが…。笑。

市松人形には、この下の写真の風呂敷の左のピンク系の方を使いました。右は同じ柄の色違いの黄色系です。

風呂敷の画像

▲同柄・色違いの風呂敷

この風呂敷には、「午」の他にも「戌」や「卯」の玩具の模様があります。

裁断時の工夫で、戌年用にも卯年用にも着物が作れる!と思った記憶があります、作ってないけども。笑。

左袖のたもとの部分に「春駒」の絵がくるように考えて裁断しました。

この記事を書くに当たってこのたび、この馬が「春駒(はるこま)」という名前で、年初めの縁起物だということを知りました。作った当時も調べたかもしれませんが、もはや覚えていません。

着物画像2

▲人形の着物の画像2

自作「市松人形」その③にも書いた通り、人形自体は自分なりにアレンジ(一部粘土仕立て)を加えました。この本の指南通りに全て布で作ったわけではないので、私の作った人形本体の身長は、想定よりちょっと小さくなったようです。

だから相対的に、型紙の着物の寸法は私の人形に対してはちょっと長めとなり、本に記載されていたおはしょりの分量では足りなかったようです。人形に着せてみた時、着物の着丈が長く仕上がりました。それでも「ま、いっか」と思いました。

とりあえず人形と着物が「形成」されたので、今度はスタジオ撮影依頼を急がねば!と焦って、丈の調整などはあとまわしにしました。しかも見えるとこだけきれいに縫って、あとは着付けでカバーしよ!などと思って、結局そのままになりました。

丸ぐけ帯締めも、腰紐も、「京都物産展」で購入したちりめんや着物生地のハギレで作りました。帯揚げに使った絞りの紐も「京都物産展」で購入した子供用の髪飾りを転用しました。

本当にあの90年代の青森・松木屋百貨店の「京都物産展」は、私にとっては「天国」でした。ま、夢見ごこちで、ついつい財布の紐を緩め過ぎちゃったと、今は反省していますが。

でも、今だったら買えないな、素材としての風呂敷なんて…。

次回は、この人形を作るのに買った特殊な握りはさみを紹介して、市松人形の話を終わる予定です。

自作「市松人形」その④/体の構造編

着物を脱がせた人形の本体を、色々な方向から見てみます。

横から見た右腕と後頭部

横からの画像

横から見た人形

着物を着せて座らせるために、ボディー本体は粘土だけで作りました。

ひじから手先まで、膝から足先までも粘土で作り、二の腕部分と大腿部分は布で作りました。

ボディーとのつなぎ目は布に「あそび」を持たせて、あえて綿は入れず、着物を着つける時に自由に動くようにしました。

参考にした古い市松人形の写真では、つなぎ目の布には綿が入っているようでしたが、どのように本体と繋がっているのかは写真だけではわからず、やむなく綿は入れずに自分流につなげました。

肩の部分には、自作「あやつり人形」でも使用した「ヒートン」という金具をねじ込みました。

ヒートン画像

▲ヒートン

各パーツのつなぎ方

腕は、ボディーの肩にねじ込んだヒートンの輪っかに、あそび布付きの腕を糸でとじ付けています。

そして、手について。

普通の市松人形の手は左右同じ形に作られていますが、私の人形の右手の指先は、着物の「振り」をはさむポーズをとらせるために、この形にしました。普通に作った左手は指が取れて修復しました(その➁/修復編で紹介)。

ちなみに、下の写真の首についている布ですが、着物を着付けた時の肌襦袢の襟に見せる「なんちゃって襟」です。

右手の画像

▲着物の「振り」を持たせるための右手

頭部とボディーとは別に作って、ボディーの首の所に穴を開け、ボンドをつけて頭を差し込んで固定しました。(襟がじゃまでよく見えませんが…)

首のつなぎ目画像

▲頭部とボディーのつなぎ目

ボディーのつなぎ目部分

腹回りの画像

▲前面のアップ

アップにすると胡粉がひび割れているのがわかります。

股間画像

▲足の付け根部分のアップ

腕とあそび布、膝下とのあそび布の両方の継ぎ目は、袋状に縫った生地の端を折り返してボンドで接着しています。

そして、ボディーと太もも部分のあそび布は、下部の脚の付け根部分に、横向きでぐるりと刻みをつけた線の所を糸で縛って付けています。

 

足先までの画像

▲足先までのアップ

おしり画像

▲背面から見たところ

着物を着せると見えなくなるので、お尻に割れ目は不必要ですが、削ってしまいました。ちょっとはしたないポーズですが、わかりやすいと思って撮影しました。笑。

ちなみに、古い市松人形の写真を見ると、男女とも小さい「局部」の表現がされていて、より人間に近づけたかった?職人さんのマニアックさが垣間見られます。

次回は着物について。

 

ちなみに、毎年冬の時期に重機で雪かきしてくれる近所のおっちゃんが、体を壊して来られなくなりました。しょうがないので、パート終わりにママダンプ等で雪かきに精を出していたら、ワタクシ疲れてしまいまして更新が進みません。一月中に更新し終わる予定だった市松人形は、二月に持ち越しになってます。一人で焦っています。

おっちゃんが出動してくれていたから、記事の更新も進んでいたのだと、改めて思います。おっちゃ~ん、カムバ~ック!

自作「市松人形」その③/模索編

人形作りで参考にした書籍と、大量の市松人形の写真をもとに、自分なりにアレンジを加えて人形本体を作った経緯を紹介します。

実際に作ってみた人形本体

ネイキッドの人形画像

▲着物を脱がせた自分流の市松人形の本体

人形作家・土田早苗さんの『四季の手作り人形』(世界文化社/1997年刊)という本に触発され、この本で紹介されている作品の作り方をお手本にして、自分流にアレンジした人形を作りました。

この上の写真は、土田早苗さんの本に掲載されている作風とはかなり違います。

この本で作り方が掲載されている人形は、基本的にぬいぐるみです。頭部、胴体、手足など、全て縫われた布に綿を詰めて作られています。

本に掲載されている作品の、顔と手にはちりめん生地が使われており、表情は瞳を閉じたものが多く、おしとやかな雰囲気の可愛らしい仕上がりになっています。

そしてこの本の冒頭には別枠の【参考作品】として、ちりめん張りのお顔に象眼の技法で、ガラス状の目がはめ込まれている作品が掲載されています。目以外に、鼻も口も他の作品とは一線を画すような別の技法で作られており、着物の生地も格が高く、より一層すてきな人形となっています。

ただし、その【参考作品】の作り方自体は掲載されていません。きっと初心者には向かない、難しい作り方だからでしょう。その作品の作り方が掲載されていないのを残念に思いました。

そこで、その【参考作品】の人形がどうやって作られたのかを考えたところから、私の創作が始まりました。

自分流の人形を作るために

一般的に、市松人形は桐のおがくずに糊を混ぜて型抜きしたり、型に石膏を流し入れて作るようですが、その時はお手本もなく、私にはそこまで本格的にはできませんでした。

だから、その『四季の手作り人形』の作り方を手掛かりとし、参考にしました。

ぬいぐるみでは私の作りたい表情は作れなそう…。かと言って、本格的に作る手法もわからない。

そこで桐塑や石膏の代わりに、使い慣れた石塑粘土を用いて頭部や手足を作って、私が思い描く「市松人形」に近づけたいと思いました。

とにかく、まず、その『四季の手作り人形』に書いてある基本の作り方で、布で縫うとどんな感じになるのかを知りたくて、部分的にサイズ通りに縫ってみました。

ボディー人形画像

▲本と同サイズで布で作ってみたボディー部分

型紙に従うと、ボディーと脚は同じ続き布で、足先までできます。

足首は前面にダーツを入れ、すくい込んで縫うことで、平らな布でいながら立体的に足ができます。

つま先は最初から足袋をはいたような形状に、型紙ができていました。

初心者にも縫いやすく、考え抜かれた合理的なデザインです。

試作品の画像

▲布で作ってみた頭部とボディー

これを作ったことにより、基本作品のサイズ感がわかりました。

でも、私は着物を縫ったこともありません。

だから本に掲載されている着物の型紙をそのまま使用するために、原型から作ってみるような回りくどい作業をしたのです。

そして、縫い上った見本の頭囲や胸囲などを計り、自分が粘土で作る頭部、胴体、肘から下の手先、膝から下の足先までのサイズの目安にしました。

 

ちなみにこの紺色の生地は、辰年の時に作った「カンフーあやつり人形」に着せた衣裳の残り布です。

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他に参考にした書籍など

市松人形を作るにあたって、このブログに何度も登場する、廃業した青森・松木屋デパートの新古書バーゲンで購入したムック本『人形』(京都書院/1985年刊)の、第1巻から第4巻までを参考にしました。(←この本は後にメルカリでまとめて売却。笑)

他にも、青山惠一さんの『市松人形』(京都書院アーツ/1998年刊)も参考にしました。この本にはたくさんの市松人形の写真が掲載されています。着物を脱がせた人形の構造も多数掲載されていて、着物の着付け方も大変参考になりました。

今も好きな一冊です。

他に『骨董 緑青vol.12市松人形の系譜』(マリア書房/2001年刊)という本も購入し、参考にしました。

本職の方々が作られた、古今の市松人形は見飽きることがありません。それぞれに違う人形のお顔も、職人さんが作った綺麗な着物を見るのも楽しいです。

「市松人形」の世界は、本当に素晴らしい日本文化だと思います。

実物の市松人形を見たこともない状態で、それに近い物を作ろうとするには、こういった資料となる本が大いに助けになりました。技術は低い私でも、志だけは高く。

私がこの人形を作った25年前は、今ほどインターネットのコンテンツは充実していませんでした。今は検索すると、市松人形の作り方を教えてくれる色々な動画やサイトがあります。ビックリしました。

何なら3Dプリンターも安価で手に入る昨今。

素人の自分が手作りで一から市松人形を作る意義はあるのかな?などと考えてしまいます。

別の人形も作ってみたいなぁと思いつつ、何も作らずに25年経ってしまいました。

たかだか5年先、10年先の未来でさえ予測不能になっています。頭の中がまだ「昭和」のままな私は、時代の流れについて行くのも難しくなっています。

次回も人形の構造について。