何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

自作「市松人形」その④/体の構造編

着物を脱がせた人形の本体を、色々な方向から見てみます。

横から見た右腕と後頭部

横からの画像

横から見た人形

着物を着せて座らせるために、ボディー本体は粘土だけで作りました。

ひじから手先まで、膝から足先までも粘土で作り、二の腕部分と大腿部分は布で作りました。

ボディーとのつなぎ目は布に「あそび」を持たせて、あえて綿は入れず、着物を着つける時に自由に動くようにしました。

参考にした古い市松人形の写真では、つなぎ目の布には綿が入っているようでしたが、どのように本体と繋がっているのかは写真だけではわからず、やむなく綿は入れずに自分流につなげました。

肩の部分には、自作「あやつり人形」でも使用した「ヒートン」という金具をねじ込みました。

ヒートン画像

▲ヒートン

各パーツのつなぎ方

腕は、ボディーの肩にねじ込んだヒートンの輪っかに、あそび布付きの腕を糸でとじ付けています。

そして、手について。

普通の市松人形の手は左右同じ形に作られていますが、私の人形の右手の指先は、着物の「振り」をはさむポーズをとらせるために、この形にしました。普通に作った左手は指が取れて修復しました(その➁/修復編で紹介)。

ちなみに、下の写真の首についている布ですが、着物を着付けた時の肌襦袢の襟に見せる「なんちゃって襟」です。

右手の画像

▲着物の「振り」を持たせるための右手

頭部とボディーとは別に作って、ボディーの首の所に穴を開け、ボンドをつけて頭を差し込んで固定しました。(襟がじゃまでよく見えませんが…)

首のつなぎ目画像

▲頭部とボディーのつなぎ目

ボディーのつなぎ目部分

腹回りの画像

▲前面のアップ

アップにすると胡粉がひび割れているのがわかります。

股間画像

▲足の付け根部分のアップ

腕とあそび布、膝下とのあそび布の両方の継ぎ目は、袋状に縫った生地の端を折り返してボンドで接着しています。

そして、ボディーと太もも部分のあそび布は、下部の脚の付け根部分に、横向きでぐるりと刻みをつけた線の所を糸で縛って付けています。

 

足先までの画像

▲足先までのアップ

おしり画像

▲背面から見たところ

着物を着せると見えなくなるので、お尻に割れ目は不必要ですが、削ってしまいました。ちょっとはしたないポーズですが、わかりやすいと思って撮影しました。笑。

ちなみに、古い市松人形の写真を見ると、男女とも小さい「局部」の表現がされていて、より人間に近づけたかった?職人さんのマニアックさが垣間見られます。

次回は着物について。

 

ちなみに、毎年冬の時期に重機で雪かきしてくれる近所のおっちゃんが、体を壊して来られなくなりました。しょうがないので、パート終わりにママダンプ等で雪かきに精を出していたら疲れてしまいました。一月中に更新し終わる予定だった市松人形は、二月に持ち越しになってます。一人で焦っています。

おっちゃんが出動してくれていたから、記事の更新も進んでいたのだと、改めて思います。おっちゃ~ん、カムバ~ック!

自作「市松人形」その③/模索編

人形作りで参考にした書籍と、大量の市松人形の写真をもとに、自分なりにアレンジを加えて人形本体を作った経緯を紹介します。

実際に作ってみた人形本体

ネイキッドの人形画像

▲着物を脱がせた自分流の市松人形の本体

人形作家・土田早苗さんの『四季の手作り人形』(世界文化社/1997年刊)という本に触発され、この本で紹介されている作品の作り方をお手本にして、自分流にアレンジした人形を作りました。

この上の写真は、土田早苗さんの本に掲載されている作風とはかなり違います。

この本で作り方が掲載されている人形は、基本的にぬいぐるみです。頭部、胴体、手足など、全て縫われた布に綿を詰めて作られています。

本に掲載されている作品の、顔と手にはちりめん生地が使われており、表情は瞳を閉じたものが多く、おしとやかな雰囲気の可愛らしい仕上がりになっています。

そしてこの本の冒頭には別枠の【参考作品】として、ちりめん張りのお顔に象眼の技法で、ガラス状の目がはめ込まれている作品が掲載されています。目以外に、鼻も口も他の作品とは一線を画すような別の技法で作られており、着物の生地も格が高く、より一層すてきな人形となっています。

ただし、その【参考作品】の作り方自体は掲載されていません。きっと初心者には向かない、難しい作り方だからでしょう。その作品の作り方が掲載されていないのを残念に思いました。

そこで、その【参考作品】の人形がどうやって作られたのかを考えたところから、私の創作が始まりました。

自分流の人形を作るために

一般的に、市松人形は桐のおがくずに糊を混ぜて型抜きしたり、型に石膏を流し入れて作るようですが、その時はお手本もなく、私にはそこまで本格的にはできませんでした。

だから、その『四季の手作り人形』の作り方を手掛かりとし、参考にしました。

ぬいぐるみでは私の作りたい表情は作れなそう…。かと言って、本格的に作る手法もわからない。

そこで桐塑や石膏の代わりに、使い慣れた石塑粘土を用いて頭部や手足を作って、私が思い描く「市松人形」に近づけたいと思いました。

とにかく、まず、その『四季の手作り人形』に書いてある基本の作り方で、布で縫うとどんな感じになるのかを知りたくて、部分的にサイズ通りに縫ってみました。

ボディー人形画像

▲本と同サイズで布で作ってみたボディー部分

型紙に従うと、ボディーと脚は同じ続き布で、足先までできます。

足首は前面にダーツを入れ、すくい込んで縫うことで、平らな布でいながら立体的に足ができます。

つま先は最初から足袋をはいたような形状に、型紙ができていました。

初心者にも縫いやすく、考え抜かれた合理的なデザインです。

試作品の画像

▲布で作ってみた頭部とボディー

これを作ったことにより、基本作品のサイズ感がわかりました。

でも、私は着物を縫ったこともありません。

だから本に掲載されている着物の型紙をそのまま使用するために、原型から作ってみるような回りくどい作業をしたのです。

そして、縫い上った見本の頭囲や胸囲などを計り、自分が粘土で作る頭部、胴体、肘から下の手先、膝から下の足先までのサイズの目安にしました。

 

ちなみにこの紺色の生地は、辰年の時に作った「カンフーあやつり人形」に着せた衣裳の残り布です。

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他に参考にした書籍など

市松人形を作るにあたって、このブログに何度も登場する、廃業した青森・松木屋デパートの新古書バーゲンで購入したムック本『人形』(京都書院/1985年刊)の、第1巻から第4巻までを参考にしました。(←この本は後にメルカリでまとめて売却。笑)

他にも、青山惠一さんの『市松人形』(京都書院アーツ/1998年刊)も参考にしました。この本にはたくさんの市松人形の写真が掲載されています。着物を脱がせた人形の構造も多数掲載されていて、着物の着付け方も大変参考になりました。

今も好きな一冊です。

他に『骨董 緑青vol.12市松人形の系譜』(マリア書房/2001年刊)という本も購入し、参考にしました。

本職の方々が作られた、古今の市松人形は見飽きることがありません。それぞれに違う人形のお顔も、職人さんが作った綺麗な着物を見るのも楽しいです。

「市松人形」の世界は、本当に素晴らしい日本文化だと思います。

実物の市松人形を見たこともない状態で、それに近い物を作ろうとするには、こういった資料となる本が大いに助けになりました。技術は低い私でも、志だけは高く。

私がこの人形を作った25年前は、今ほどインターネットのコンテンツは充実していませんでした。今は検索すると、市松人形の作り方を教えてくれる色々な動画やサイトがあります。ビックリしました。

何なら3Dプリンターも安価で手に入る昨今。

素人の自分が手作りで一から市松人形を作る意義はあるのかな?などと考えてしまいます。

別の人形も作ってみたいなぁと思いつつ、何も作らずに25年経ってしまいました。

たかだか5年先、10年先の未来でさえ予測不能になっています。頭の中がまだ「昭和」のままな私は、時代の流れについて行くのも難しくなっています。

次回も人形の構造について。

自作「市松人形」その➁/修復編

制作から25年後の令和8年。人形をよく見れば、スタジオ撮影した真新しい頃とはいろいろと様子が違っています。やんぬるかな!笑。

令和8年の現在の人形

シルク製の帯揚げが劣化していたので、緑色の絞りの飾り布で代用しました。

後に廃業した青森・松木屋の「京都物産展」で購入してストックしていたものです。元々は子供用の日本髪の髪飾りでした。

全体写真前から

▲現在の人形の前面

背面写真

▲現在の人形の背面

顔だけ写真

▲メガネを外した人形の顔のアップ

頭部は石塑粘土で作り、その上からシルクの生地を貼って、胡粉を塗りました。

元々は白い生地だったのに、経年劣化で黄色っぽく変色しています。

口元が白いのは、唇に紅用の絵の具を塗る時に、生地に滲まないように、胡粉の上からジェッソで修正をかけた痕だと思います。

25年経って、肌の色の絹の生地は黄変したのに、口元の白い色がここまで残るなら、胡粉よりもジェッソを塗るべきだったのだと実証されました。涙。

糸の画像

▲当時使った白の絹手縫い糸も黄色に変色

鉛筆で描いた眉毛も薄く退色しています。白目と黒目はアクリル絵の具で描きました。

髪の毛は黒色の木綿の糸を使いました。かせ状になっている20番手の太口縫い糸です。参考にした本には「黒も」と書いてありましたが、検索しても出て来ませんでした。

その土田早苗さんの本『四季の手作り人形』には、目からウロコの画期的な髪の作り方が掲載されていて、その手法に感動してその本を購入した記憶があります。

上の写真の人形の髪はボサボサですが、土田さんの本に掲載されている写真の髪は、もちろん綺麗に揃っていますよ。

もげた小指の修復

小指の写真アップ

▲もげた左の小指。手の表面の胡粉もひび割れて…。

結婚して、婚家に人形を連れて来てから、親指を除く左手の指先が全部もげたのを発見し、瞬間接着剤で直した記憶があります。テキトー!

指全体の付け根のひび割れはその時の名残です。

そして今度は知らぬ間に、小指だけまたもげたらしく…。もげた指先は行方不明になってます。

ブログで紹介するこの機会に、石塑粘土を盛って修復します。

ラドールと人形

着物を脱がせた人形と石塑粘土「ラドール」

 

親指以外の、一旦もげた指全体を覆うように粘土を擦り付け、小指の分も新たに多めに盛ってみました。粘土は一日放置したら乾いて固くなりました。

修復中の写真

▲多めに粘土を盛ったところ

 

息子の小学生時代の彫刻刀を使って、盛った粘土を削り、指を削り出しました。

間に合わせの粗削りです。指がないよりはいっか、って感じの完成度です。

削り出した指

▲削り出された新しい指

修復部分に水をつけて、表面をなめらかにします。

指の修復でなめらかに

▲水を塗ってなめらかにした指

乾いたら、紙やすりをかけてより滑らかにします。

 

25年前は最後に胡粉を塗ってより綺麗な肌にしましたが、今回はそこまではしません。

当時使った「チューブ入りの胡粉」の残りがありましたが、フタにニカワがびっちりついて開かないので。中の胡粉はまだ柔らかそうですが、出すと面倒だし。笑。

ニカワチューブ画像

当時使ったの胡粉チューブの残り


次回は着物を脱がせた人形本体を紹介する予定です。

自作「市松人形」その①/紹介編

2002年(平成14年)の午年の年賀状向けに、2001年の暮れに作った市松人形を紹介します。

まさに馬子にも衣裳?

市松人形写真

午年の年賀状用に作った 市松”ヤスコ”人形

24年前の午年の年賀状用に、2001年の暮れに初めて市松人形を作りました。

土田早苗さんという人形作家の『四季の手作り人形』(世界文化社/1997年刊)という本を参考に、自分なりにアレンジを加えて制作してみました。

 

2002年の春が終わる頃に、私は結婚する予定となっていたので、「夢の寿退社」を見据え、予告的に「馬子にも衣裳」というラベルを作って貼ってみました。

超なが~い独身時代にピリオドを打てたので、浮かれていたのかもしれません。笑。

この作品で、年賀状用にオリジナル人形を作ることは最後になりました。

 

この写真は、いつもお願いしていた青森市のコマーシャルフォトスタジオ「スタジオクルー」で撮影していただきました。

http://studiocrew1193.web.fc2.com

 

例年とは違い、早めに人形を作り終えたので、この年はスタジオ撮影に立ち会えました。毎年人形の完成は、本業の仕事も忙しい年末の、ギリギリの時期に重なっていました。最後の年くらい頑張らないと、と余裕を持って完成させた記憶があります。

出来たばかりの人形をサクッと撮ってもらった冒頭の写真が、一番いい状態の時です。

現在はこんな感じです

市松人形の現在写真

他の人形たちと一緒に置かれている現在の人形

 

私は、実家がビンボーだったので、ひな人形を買ってもらえませんでした。

その代わりとして?私は自作のこの人形を婚家に連れて来ました。その位思い入れがあったのです。

今回改めて見てみたら、人形は手をケガをしていたり、正絹?の帯揚げが朽ちかけていたり、顔に塗った胡粉が変色したりと、散々な感じになっています。

知らず知らずのうちに、四半世紀も経ってしまいましたので…。ま、私本体も同じようにあちこち朽ちていますが…。笑。

 

ケガを修復しつつ、次回からは人形や着物の構造、着物の材料となったちりめんの風呂敷のこと、人形を作るために「松木屋・京都物産展」で購入した、マニアックな「握り鋏」の紹介などをしていきたいと思います。

うちにはサンタが来ないのを知っていた子供時代の話。

サンタクロースの写真

クリスマスを迎える頃に思い出す、子供時代のエピソードを書いてみました。

幼なじみのあっちゃんのこと

私の実家の近くに、中学校教師のご夫婦が住んでいました。お父さんは美術の先生、お母さんは英語の先生でした。

そのA先生夫妻には、私より2歳上のあかねちゃん(仮名)という一人娘がいました。ここから先は、彼女のことを「あっちゃん」と呼びます。

あっちゃんは、ジミー・ページ似のイケメンのお父さんにそっくりな美少女で、背が高く、賢い子でした。後に「薬剤師」になったくらい勉強もできる、完璧な女の子でした。

実家の母から聞いた話によると、あっちゃんは私の就学前から私に本を読み聞かせたり、折り紙を折ったりして遊んでいてくれていたのだそうです。残念ながら、その記憶は私には全くありませんが。

朝一番に私の両親が「ヤスコがいない!」と気づいて、もしかして…とA先生宅に行ってみると、既に遊びに行っていた、ということもあったそうです。放し飼いの犬みたいですが…。

今、私の近所に、子供のそんな友達が住んでいたとして、朝から来られたらソッコーで帰ってもらうと思います。笑。

 

私の中で、あっちゃんとの記憶がハッキリと始まったように感じるのは、私が小学校に入学してからだと思います。あっちゃんと登校班が同じになって、小学校に一緒に通うようになってからです。それは、今は昔の1971年、昭和46年のことです。古っ!笑。

あっちゃんのお部屋にあった物

当時、あっちゃんの部屋のスチール製の本棚には、子供向けの「世界の名作」の絵本がシリーズで20冊くらい、ずらりと並んでいました。

そして白い洋服タンスの上にはフランス人形と「リカちゃんハウス」が置かれていました。あっちゃんは「リカちゃん」ばかりではなく、たしか「いづみちゃん」も持っていました。笑。

あっちゃんと私の2ショット写真

あっちゃんと私。昭和46~47年頃。

【こども音楽館】のこと

そして気が付けば、ある時期から、スチール製の本棚には【こども音楽館】というレコードと絵本のセット全12巻と、赤と白のプラスチック製のレコードプレーヤーがのっているようになりました。

【こども音楽館】は1968年から1969年にかけて学研から刊行された、クラシックの名曲のレコードと、その曲にちなんだ物語の絵本がセットになった立派なものでした。

私はその絵本を見せてもらいながら、黒い「レコード」というモノがくるくる回転して、音楽を鳴らすのを初めて見ました。

ビンボーなりんご農家の子供だった私にとっては、「文明と文化」に初めて触れるような、輝くような体験でした。

「お父さんに買ってもらったの?」と聞いたら、あっちゃんはこう答えました。

 

サンタさんにもらったの。ヤスコちゃんもいい子にしてたらもらえるよ と。

 

「サンタさんにもらったの!?」とビックリして、うらやましく思いました。

でも、我が家には「サンタさん」は来ないだろうことを、私は何となく知っていました。家に帰ってから、母にその話を教えましたが、どんな返事が返ってきたかはもちろん覚えていません。笑。

でも2歳年上の頭のいいあっちゃんが、小学3~4年生の頃に「サンタにもらった」と答えたこと、そしてあっちゃんが本気でサンタクロースの存在を信じていたことが、その後、何年も記憶に残りました。サンタが何者であるかをわかってからも、ずっと。

親になった自分がいま思うこと

A先生夫妻はあの昭和40年代の中ごろに、「サンタクロース」のことを子供に信じさせるように、上手に子育てしたのだと思います。あっちゃんにはサンタがいるかどうかなんて、疑う気持ちなど微塵もなかったようでした。

一方、我が家では「クリスマス」とは、親に「サンタのブーツのお菓子」の様な、ささやかな物をおねだりできる時期、という認識でした。サンタさんから直接もらうのではなく「だってクリスマスだから」と、親から買ってもらうシステムでした。

そして昔、私がまだ保育園児だった時のクリスマス会には、最後に「サンタさん」が登場しました。私は「あの帽子からはみ出てる髪型に見覚えがあるぞ…あっ、給食係の阿保さん(←実名)だな?新しい長靴をはいている…」などと思っていました。

子供のくせに、現実的すぎて、なんだか悲しいぞ。笑。

伊坂芳太良の『ヘンゼルとグレーテル』

あっちゃんの持っていた【こども音楽館】の絵本の中では『ヘンゼルとグレーテル』が一番好きでした。挿絵は「伊坂芳太良」という、当時大人気ながら早逝したイラストレーターの絵でした。

描線は細く、髪の毛やまつげの表現が独特で、当時の60年代のテイストが感じられる繊細なイラストでしたが、なんとも言えない不気味で不穏な作風に見えました。

元はグリム童話なのですが、ストーリー自体も残酷で、絵も「不穏」ですから、何か見てはいけない本のように感じました。

深夜、口減らしのために、森の奥に子供を捨てる算段をしている継母と父親の話を、ドアの向こうでヘンゼルが聞いてしまう描写など、乾いていて本当に怖い絵でした。

幼かった私には、不気味な絵とストーリーがトラウマ級にインパクトを与えました。

それでも、何故だかその本にとても惹かれました。

ついに念願の本を入手!

私が結婚した前の年の2001年に、新宿高島屋で「幻の絵師 ペロ展」という伊坂芳太良の回顧展がありました。(伊坂さんは「Pero」という通称も使っていました。)
その展覧会で、【こども音楽館】の絵本と原画が並べて展示されていた記憶があります。

結婚後、ふと【こども音楽館】のことを思い出し、ネットで検索してみたら、ヤフオクに出品されていました。全巻揃いで1万円程で落札できました。

30年程の時を経て、改めて大好きだった伊坂芳太良の『ヘンゼルとグレーテル』を手にしました。高島屋で見た時以来の再会でした。

大好きだったあの本が、とうとう自分の物になったのです!

あっちゃんの部屋で見たこの絵本に対する自分の執着が、そこまでだったとは思いもしませんでした。

いま検索するとメルカリ等にも出品されています。とても探しやすくなりました。

その後のA先生について

今年、A先生夫妻のうち、お母さんがお亡くなりになったようです。

葬儀が終わってから、私の母が人づてに聞いたそうです。残されたお父さんがどうしているのかは、わかりません。元の家には誰も住んでいないようです。悲しいです。

亡くなる前は老人施設に入所されていたようですが、詳細はわかりません。親同士のお付き合いも疎遠になってしまったので。

放し飼いの犬のように、ガンガン遊びに来る近所の子供「ヤスコ」の来訪を、嫌な顔ひとつせず迎えてくれたA先生夫妻。家族の一員であるかのように、幼い頃の私をあっちゃんと一緒に遊ばせてくれて、快く受け入れてくれたことに、今更ながらに感謝の念がわきます。

一人娘のあっちゃんはずっと首都圏に住んでいます。私とは学力の差が大き過ぎて、高校進学の時点で完全に進路が別れて以来、次第に接点も少なくなり疎遠となりました。

彼女が薬剤師となり、大学時代の同級生と結婚した最初の年に帰省した折、せっかくだからと彼女のお母さんからお呼びがかかり、お相手ともご対面。三人でスナップ写真に収まりました。

綺麗で立派に見えるあっちゃんに対して、私は気後れしてしまい、完全に「半見知り状態」になってしまいました。そして三人でスナップ写真を撮った時が、最後になりました。

あっちゃんは都会から三人の息子さんを連れて、夏休みごとに長期で実家に滞在したものでしたが、その時もやはり何となく気後れしてしまい、会いに行けませんでした。別に、いつもの「犬キャラ」で会いに行けばよかったのに、と今なら思いますが…。

ま、ご縁がなかったのでしょうね、残念ですけれど。 

私とサンタ、その後

子供の頃の私の家にはサンタさんは来ませんでしたが、私の子供たちの所には毎年サンタさんは来てくれました。そして親としても、サンタさんの「来訪の痕跡」に驚く演技をして、喜ぶ子供たちの笑顔を楽しませてもらいました。

サンタさんの存在を子供に信じさせることが、親としての醍醐味だったと思います。

「FUKUDA塾」1995・二戸の話/その④

第二回「FUKUDA塾」1995のワークショップについて、参加者に撮ってもらったスナップ写真と共にレポートします。この時作った私の作品は、残念ながら「大人の事情」で掲載不可です。

1995年のFUKUDA塾ロゴマーク

1995年のFUKUDA塾・オリジナルTシャツより

1995年の「FUKUDA塾」

資料になるスナップ写真を改めて探してみたら、なんとか出て来ました~。

今回の記事で紹介するカラーのスナップ写真は、95年の第二回に一緒に参加した「元友人とその友人」が撮ってくれたものです。

どーゆーこと?笑。

第一回のFUKUDA塾の開催を知った私は、申し込み期間が迫っていたので、可及的速やかに(笑)、私一人で参加したのですが、元友人からは「なんで誘ってくれなかったのぉ~!」と、マジで怒られました。で、次の年には誘ったら、一挙に二人追加になり、三人で参加することになりました。


今ではその二人とは音信不通となってしまいましたが(笑)、その時にスナップ写真を撮ってもらったことに、いま改めて感謝しなくてはなりません。

看板の写真

大広間の舞台前で撮影された記念の写真

この写真は、「緑風荘」の大広間の舞台の前で記念に撮ってもらった写真です。舞台の上に掲げられた看板に

1995 FUKUDA塾
造形をとおして学ぶ 生活文化の豊かさ 快適さ
塾長・福田繁雄先生 主催・二戸市・二戸市教育委員会

と書いています。

もはや記憶にありませんが、きっと94年の第一回開催時にもこういった看板はあったのかもしれません。立派な看板が掲げられていることから、二戸市の福田繁雄さんに対する敬意と歓迎の気持ちが感じられます。

95年に作った時計の説明

作業中のヤスコ

余分な部分をはぎ取る作業中の私(右)

こちらの写真は、座卓で集中して作業している時に知らぬ間に撮られた写真です。私は前年に参加して大体の流れがわかっていたので、作りたいデザインの下絵を原寸大に調整して、事前に準備して行きました。

準備したのは大好きなロイ・リキテンスタインのポップアート「M-MAYBE」のパロディです。著作権侵害になるので、完成した作品をブログに掲載することはできません。リキテンスタイン、M-MAYBE、等で検索していただけると、どの作品を元ネタにしたのか分かると思います。

プラス「時計の針をあえて10分遅らせて使用」という、謎の設定をしました。いわゆる細かすぎて伝わらない系のネタ、みたいな感じです。

実際の制作の手順

どのようにパロディにしたかを言葉だけで説明したいと思います。

①透明のアクリル板の表面全体に30×30㎝の黒いカッティングシートを貼り付ける。その上に下絵をスプレー糊で貼り、黒い輪郭線を切り出す。※上の写真は黒いシートの余分なところをはいでいる工程です。

イラストの目線の先は、時計の針を付ける左下に向ける。ふきだし内の文言を、M-MAYBE THIS CLOCK IS TEN-MINUTES LATE ! に改変。

和訳すると、「た、たぶん、この時計は10分遅れている!」です。

②黒いシートの不要な部分をはいだ面に、裏側から見えるように方眼紙をあてがう。アクリル板をひっくり返して、方眼紙を見る。(黒以外の色は全て裏面に貼る。)

シルクスクリーンで印刷された肌のドットを再現するのに、直径3mmの穴あけポンチでくり抜いた赤いカッティングシートの円を、方眼紙をガイドに規則正しく貼る。

③髪の黄色、階段の赤、窓や服の青を、アクリル板の裏面から貼る。

④全てのカッティングシートを貼り終わったら、裏全体に30×30㎝の白いカッティングシートを貼る。

⑤イラストの左下に開けておいた穴に時計の針をセットする。

…伝わったでしょうか?言葉だけだと難しいかもしれませんね。

原画のシルクスクリーンのドットを再現するのに、穴あけポンチで3mmの小さな赤い円を無数に切り出し、貼り付ける作業が大変でした。制限時間内で終わらせないと!と時間に追われ、焦りと闘いながら自分なりの「完璧」を目指してやってました。

ちなみに、作業に取り掛かる前に、事前に用意した下絵を福田さんに見せて「こんなの考えてきたのですが…」と一応見てもらったのですが、「決めて来たのならすぐにやりなさい」と言っていただき、ホッとしました。

すぐに取り掛かるように言われたのは、ドットの再現が大変そうだとの予測からだと思われます。実際、大変でした。

手伝いを拒んだ自分のこだわり

一緒に参加した友人が見かねて、ポンチで円を切り出すのを少し手伝ってくれたのですが、シートに対してポンチを垂直に当てていなかったので正円にならず、一部はラグビーボールみたいな形になっていました。涙。

私の「理想の円形」ではなかったので、内心イライラしてしまい、渡されたラグビーボール型のシートは貼ったふりをして、こっそり捨てたりしていました。←笑。

そして「やっぱ自分でやりたいから、手伝わなくていいよ~」とできるだけ角が立たないように、ソフトに断わりました。

でもそこから、ワークショップの終わりまで、ずっと微妙な空気になりました……。

他のことはどうでもいいゆるいタイプなのですが、こと自分の「創作」に対してはこだわりが強く、譲れないところもありました。ホント、面倒で嫌なヤツでした。

 

今の私なら「ダメダメ!これじゃ使えないよ~。ポンチは確実に垂直に当ててね!」などとハッキリと指摘しっちゃって、こき使って逆に離脱させそうですけどね。笑。

記念のスナップ写真

作業も終盤、そこにいた人々と記念撮影

この写真は一緒に作業していた方々と撮ったスナップ写真です。スタッフの和山さんもいらっしゃいます。


ちなみにこの年は、中学や高校で「美術」を教えている先生が多かった印象でした。弘前出身の女性の先生もいらっしゃいました。

このワークショップが終わってから、彼女らのお勤め先の高校の文化祭を見に八戸まで行ったり、宮城で教えていらっしゃる先生のシルクスクリーン作品の個展を見に、仙台のギャラリーまで行ったりしました。

今はない、フットワークの軽さ。若かったな。

自分の中の満足感

完成後、前年のように一堂に会して作者によるプレゼンと、福田さんの講評がありました。

私の作品に対して、福田さんからどんなコメントがあったかは、正直よく覚えていません。あっさりとした感想で、特に褒められたりしていないから覚えていないのだと思います。笑。ま、パロディ作品だったし。

でも、私としては何かよい評価をいただくよりも、自分の部屋にお手製のポップアートを飾れる喜びの方が勝っていました。改めて離れて見てみると、ドットはわずかにずれていましたが、時間をかけて懸命に作ったので、自分では満足しました。

この年のワークショップで、自分ができる全てを出し切った気持ちがあって、次の年の第三回「FUKUDA塾」には参加しませんでした。

二戸市シビックセンター「福田繁雄デザイン館」

この記事を書くために、2024年の冬に連絡をとった二戸市教育委員会の方からいただいたメールには、1999年に設置された「二戸市シビックセンター」のことが紹介されていました。二戸市の市民の交流促進と科学技術の普及啓発を図る施設のようです。

この施設の2階には「福田繁雄デザイン館」と呼ばれる、福田さんの作品を展示している美術館があるそうです。福田さんの想像力や発想の素晴らしさを体験できる施設となっているとのことでした。常設展と企画展を開催しているようです。

▼二戸市シビックセンター

https://www.nbsk.or.jp

問い合わせをした2024年の冬頃は、福田さんがデザインした食器やカップを展示する企画展が開催されていたようです。

ちなみに現在は、岩手を拠点に活動する三人の女性デザイン書道家による特別企画展「和文字力」という書道展が開催されているようです。2026年1月18日までの企画展だそうです。

いつの日にか、新生・「緑風荘」と、二戸市シビックセンター2階の「福田繁雄デザイン館」をぜひ訪れてみたいと思います。すっかりフットワークが重くなっていますが。

これで「FUKUDA塾」については終わります。

「FUKUDA塾」1994・二戸の話/その③

「FUKUDA塾」1994で、私の記憶に今なお残っている参加者やその作品、当時の緑風荘の印象についてレポートしてみました。常識の枠内では考えられない発想の時計も!

今も記憶に残っていること

時計を作る作業は、「緑風荘」の大広間に長い会議用座卓を並べて、座布団に座って行いました。テーブル2つを組にしたものが何セットも並べられ、1セット分を3~4人で使いました。

私のテーブルでは、八戸市在住の40代?の三児の母である陽気な女性と、八戸市出身で東京の某美大の四年生の男子学生さんと一緒でした。


その94年の時のスナップ写真は一切残っていないにもかかわらず、30年以上経った今でも、記憶に残っている作品や人物がいます。

特に印象に残っているのは、同じテーブルで作業していた美大生、小学校の先生をしているという若い女性、そして弘前市でプラスチックの金型を作っているという、ちょっと風変わりな男性の、三人の作品でした。

小学校の先生が作った作品

彼女の作品は、国語の教科書に載っているという「スイミー」という物語の一場面でした。彼女は赤いカッティングシートを小さな魚の形に切り、際限なく重ね貼りして大きな赤い魚の形を作っていました。

この物語は、仲間をマグロに食べられた「スイミー」という黒い魚が主人公です。赤い小さな魚の群れが協力して大きな赤い魚を形成し、最後に魚の目にあたる部分を黒い魚の「スイミー」が担当してマグロを追い払う、というのがあらすじです。

彼女はそのクライマックスシーンを時計の文字盤の上に再現していました。

実は私はその時に「スイミー」を知らなかったので(笑)、彼女が何を作っているのだろう?と不思議に思って、率直に尋ねてみました。

そして、そんなお話があるんだ~!という驚きがあったので、彼女の作品を記憶しているのです。完全に私の無知由来の記憶の定着ですね。

※ちなみに後年、私の子供が小学生の時の国語の教科書にもレオ・レオニ作の「スイミー」が掲載されていました。教科書を見て、今度は逆に彼女の作品のことを思い出したりしました。

美大の学生さんの作品

同じテーブルの斜向かいで作業していた、東京の某美大生の彼が受け取ったアクリル板も「半透明」でした。

でも「半透明」のアクリル板に対して、私とは発想が全く違いました。

黒いカッティングシートを貼った方を裏面とし、作品は表面から見るスタイルで作っていたのです。

裏面に丁寧に貼った黒いシートは、表面から見るとグレーに映り、半透明であることが効果的に活かされていました。そういう使い方もあるんだーと、意表を突かれたような気持ちでハッとしました。

彼の作品は、人の形をした角ばったロボットの上半身のようなデザインで、一部にポイント的にショッキングピンクのシートが貼られていました。ショッキングピンクのシートはハートの形だったような記憶があります。

BARの看板にしてもいいような、センスのいい作品でした。

また、彼が実際にカッティングシートを切ったり貼ったりする作業の前に、鉛筆でささっと描いたデザイン案が、十何パターンもあったのには驚きました。

初日は、全くカッティングシートを切ることもなく、下絵の構想のみであったと思います。そしてそのことに驚いた記憶があります。寡黙で、思慮深い感じがする人でした。

風変わりな男性の作品

プラスチックの金型を作っているという、ちょっと風変わりな雰囲気の男性は、長い脚にデニムの超ミニ丈の短パン姿で、失礼ながらなんだか一人だけ異質なオーラをまとったような存在に見えました。

夏の暑い盛りでエアコンもない状況でしたから、リラックスできる涼しい格好で臨んだのかもしれません。総じて、人目を気にする様子が微塵もない、わが道を行くスタイルに見えました。

全く知らない人でしたが、同じ「弘前」からやってきた「仲間」とは思われたくないかも…と思い、あまり関わらないようにしていましたが(笑)。

ワークショップの記録を残すためか、二戸市の職員さんがビデオを片手に彼にインタビューしていて、とても長い間カメラを回していました。なぜそんなに長くしゃべる時間があったのか?

後で彼の作品を見てわかりました。多分、すぐに作業が終わったのでしょう。

大体の人が、渡されたアクリル板をそのまま使っていた中で、彼は「国旗」に近い比率にアクリル板をカットしてもらい、「ひのまる」の時計を作っていました。

①長針の先端が360度回転してできる円周の軌跡と同じ直径で、赤いシートを丸く切り、白いカッティングシートを貼ったアクリル板の真ん中に貼っていました。

➁白かった針そのものにも同じ赤いカッティングシートを貼り付けていました。

③遠目では、ただの「ひのまる」にしか見えず、何時何分なのか、時間は全く時間わからないという、ビックリ仰天のぶっ飛んだ時計でした。

自由奔放な悪ふざけのようにも見えましたが、どうもマジだったようです…。

福田さんの講評

最終日の午前中、皆が自分の作品を持ち寄り、大広間に集合して作者のプレゼンタイムとなりました。そして一人一人に福田さんから講評がありました。

私の作品には「本当の針のある部分の下地が、黒なのがいい。もし、お店で売ってたら買います。」と身に余るような感想をいただきました。普段、あまり人から褒められることも無かった私は、天にも昇る気持ちでした。

はるばる二戸に来てよかった~('-'*)と思いました。←単純。


そして問題の「ひのまる時計」の講評も、人様のことながら、忘れ難いものでした。

福田さんは「時間もわからない、役に立たない時計に見えるかもしれないけど、この人は実は凄い人ですよ。」と、おっしゃいました。

私が勝手に抱いた印象を打ち砕くかのような高評価で、これにもビックリ仰天でした。

デザインの専門家である福田さんには、普通の人には見えないものが見えている、とも思いました。この評価を聞いてたまげたことも、私にとっては大収穫だったような気がします。

失礼ながら、凡人にとっては、一見「無意味な悪ふざけ」のように見える時計は、実は既成概念を超えた発想だったのかもしれません。

福田さんの講評で記憶しているのは、この二つだけです。

後日談ですが、この風変わりな男性は、ワークショップの1~2年後くらいに青森県の東奥日報という新聞に載りました。公募などの上位入賞者の常連さんとして、写真付きのインタビュー記事で紹介されていたのです。その新聞記事を読んだ時、「あ、あの時の、あの人だ!」と思いました。やっぱ凄い人だった?ようです。

緑風荘のことを少し

素敵な温泉旅館に、生まれて初めて宿泊できたのに、どんなごちそうが出たか、すっかり忘れてしまいました。

でも、大広間で作業している時に午後のおやつとして、よく冷えたスイカが出たり、ゆでたてのトウモロコシが出たりして、参加者みんなで和気あいあいと食べたのがいい思い出として残っています。

二戸市教育委員会の計らいだったのかもしれませんが、お陰様で「おばあちゃんチの夏休み」みたいな、のんびりした時間を過ごせました。

「緑風荘」のレトロなタイル張りの洗面所も素敵でした。洗面所の蛇口も古い映画に出て来そうな趣がありました。

そして「座敷わらし」がいるという槐(えんじゅ)の間は、大広間に行く途中の左側にあって、大量のぬいぐるみや人形で飾られていました。確かにその部屋には何者かが「おわす」ような空気感でした。

薄い水色の絣のもんぺ?の上下をまとった女将さん、慎ましやかに働かれていた息子さんの、ホスピタリティーと笑顔が素晴らしかったのも、記憶に残っています。

不覚にもカメラの電池が切れていたせいで、自分の脳内の印画紙に焼き付けた当時の緑風荘の風景を、30年後の自分が今、なんとか思い出して書いています。

次回は95年の二回目のワークショップについて、触れる予定です。