何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

初めて作ったあやつり人形/その①

これは2000年(平成12年用)の年賀状のために作ったあやつり人形です。

20世紀末期から21世紀初頭にかけて(←大げさ)、私は干支にちなんだ自分の「分身」を、合計で8つ作りました。1995年の亥年から2002年の午年までの8年間です。

始めた当初は、干支を一回りする野望があったものの頓挫してしまいました。

結婚による転居で、自由な雰囲気のあった職場を辞職。そして片付けが超苦手な私が、整理整頓好きな姑と同居……などの環境の変化。双方の気持ち、推して知るべしですね。

そしてリアルな「分身」(年の差3歳・一男一女)が生まれて、「平和」に暮らすには優先すべき事柄が変わってしまいました。

今なお、自由にこもれる自分だけの部屋もなく、モノづくり自体も中断したまま、干支ばかりが巡る日々に。気づけば、あれから干支もふた回り…。

24年も経ったのかぁ。年も取るわけだよ、と思いました。

 

さて、「8つの分身」の中からこの人形を最初に発表するのは、2024年の今年が辰年だからです。辰年と言っても残りは、ま、正味2カ月と数日しかありませんけど。

 

昨年、2023年の夏、お盆に帰省した時に、実家から人形などをまとめて連れてきました。

そして、今年の上半期にはブログを開始する!と思っていました。でも、この春から急遽勤めることになったパートの仕事(スーパーでの立ち仕事!)を覚えるのに予想以上の時間がかかり、なんやかんやで下半期のこの時期までずれ込んでしまいました。

実際にパート勤めや、使い慣れないウィンドウズ11(←私は古い時代のMac愛用者。Macはとうとう壊れて使えない状態です)のパソコンの操作など、色々やってみての感想ですが、

◆私に並行作業は難しい

◆新しいことを始めたり覚えたりするのが昔より困難になっている

…とまぁ、この二つのことを実感しました。情けない限り。

で、うかうかしているうちに、来年は還暦なんです。早っ!

誰かに頼まれたり、命令されたりしたわけではないけれど、辰年の今年のうちにアップさせないと!と、自分だけで焦っています。十日の菊六日の菖蒲(あやめ)、みたいで。

ま、そもそも干支が二回りしてる時点で、焦る必要はないのかもしれませんが、還暦ということも、なんだか私を焦らせているようです。悪あがきか?

 

イヤー・オブ・ドラゴン

このあやつり人形を制作した時も、1999年の師走を目前に、かなり焦っていたと思います。…てことは、何年経っても全然成長していない、ということでしょうね。

 

当時は、来る新年が2000年という、千年に一度の特別な新年を迎える何となくめでたいような気がした初冬でした。

人形の題材を何にするか色々考えて、ブルース・リーに扮したヤスコ人形を作ることに決めました。カンフーの衣装を着せ、ヌンチャクを構えて「アチョー」と、おたけびをあげる瞬間の顔。脳内に鳴り響くBGMはもちろん「燃えよドラゴン」のテーマ曲。

前年までは普通(?)の立体作品でしたが、辰=龍(ドラゴン)=ブルース・リーだから、動きが欲しいな~と思い、作ったこともないあやつり人形に挑戦してみました。上から吊るされているだけなので、結局「動き」はなかったんですけどね。

ちなみに顔はあんまり自分に似てません。年賀状をもらった友人などは、自分だと思って作ったんだろうなぁと理解してくれたと思います。「記号」みたいなものですから。

ミレニアム、懐かしい響き。

2000年は20世紀最後の年でした。当時、世に「ミレニアム」というワードが、どこからともなくやって来て、飛び交いました。20世紀は1999年を区切りで終わると思っていた私は「え?キリがいいのに、2000年はまだ20世紀なんだ~」と思った記憶があります。無知。

西暦2000年になると、コンピューターが誤作動を起こす可能性があると、巷で騒がれていた「2000年問題」というのもありましたね。何だかよくわかんないけど「頭(あだま)いい人が、何とかするべ?(←津軽弁)」と私は思っていました。結果、頭のいい方々のご尽力のお陰か、はたまた杞憂だったのか、何事もなく新世紀になりました。めでたしめでたし。

 

プロカメラマンとの邂逅。

このドラゴン年賀状の写真はプロカメラマンのご厚意で、格安で撮影していただきました。お願いしたのは、青森市のコマーシャルフォトスタジオ「スタジオクルー」の油野さんです。ご興味のある方はこちらにアクセスしてみて下さい。

http://studiocrew1193.web.fc2.com

 

当時、私の勤めていた職場に、かつて油野さんと同じデザイン事務所で働いていた上司がいました。

今となっては記憶は曖昧となりましたが、ある仕事の撮影を、上司の仲介でクルーさんにお願いしたのを口実?に、懇親会みたいなゆるい飲み会が開催されました。それで、先輩や同僚と共に、私も同席しました。

私はその時は油野さんのことを全く存じ上げませんでした。でも、独特なライティングが印象に残る、あの素敵な夕景の外観写真を撮ったプロのカメラマンさんとお話しできるチャンス!と思い、ワクワクしていたのを覚えています。

 

話は前後しますが、その飲み会の2年ほど前から、私は私個人の年賀状向けに人形制作を始めていました。

作品を撮影するのに、当時持っていたオートフォーカスのコンパクトカメラでは飽き足らず、とにかく「接写」したくて、キャノンの一眼レフEOS(アナログカメラでレンズは50㎜マクロのみ!)を購入。まさに清水の舞台から飛び降りる気持ちでした。

そのカメラで、初めて作った亥年向けの人形と、次の年に子年向けの人形のスナップ写真を自分で撮りました。当時は焼き増しした生の写真そのものをはがきに貼り付けて年賀状にしていました。

ちなみに、私のブログのアイコンは初めて作った亥年の人形です。

 

ワクワクして参加した飲み会には、その2枚のスナップ写真を持参して参加しました。今後、より良い写真を撮るために、今日お目にかかるカメラマンさんから何かアドバイスをいただけたら…と、かなり図々しいことを思っていました。

宴もたけなわ、自分で撮った素人写真を見せながら、油野さんに対して相談から始まり、いろいろ質問攻めにしていたら、「俺が撮ってやるよ」と言って下さいました。しかも破格の料金で!ビックリしました。

上司がらみの【友達割り】が効いたかとも思いますが、油野さんのお人柄から察するに、何かにチャレンジする人を応援したい気持ちからだったかと思います。もしかしたら、私があんまりしつこくて呆れた可能性もありますが…。

 

翌年の2001年の丑年用の年賀状から撮影をお願いすることになりました。だから、この辰年の人形で4回目の撮影になります。

  

これは仕上がった写真と、はがきの白抜き文字指定の版下です。版下は、当時会社で使っていたアドビ社のイラストレータ8.0で作りました。

はがきの白抜き文字は、青森市内の青い森公園向かいにあった某カメラ店の現像でやっていただきました。毎年、年の瀬になってから私が持ち込む面倒な注文に応えていただき、大変お世話になったものです。

訳のわからん女(←私)の持ち込む写真を撮影したのが、あの「スタジオクルー」の油野さんだと知ると、カメラ店としてのプライドが奮い立っているのを感じました。ま、そう感じたのは、私の思い込みだったかもしれませんけどね。

最近、ネットでそのカメラ店を検索してみたら地図から消えていました。あれ?と思って、より詳しい検索をしてみたら、2014年に破産手続きを開始したとありました。

同業他社との競合激化や、カメラ付き携帯電話の普及で需要が激減して業績の悪化で赤字決算になったようです。誰もがスマホで写真を撮るような時代になりましたものね。隔世の感を感じます。

私もスマホの中の写真データ、現像しないまま大量に溜まってます。一眼レフも全然使っていません。なんだかスマホのカメラで十分になっちゃってます。

 

自分で撮ったスナップ写真。

またも話が前後しますが、スタジオの撮影の前に、出来上がりのイメージを伝えるために、私も一眼レフで色んな角度色んなポーズで何枚もスナップ写真を撮り、フィルムを現像に出していました。

使ったのは24枚のフィルムだったか、36枚のフィルムだったか。12枚では足りなかった記憶があります。現像してみた中から、より自分のイメージに近い、いわゆる「奇跡の一枚」を探し出し、撮影イメージの見本として提示しました。

いま同じことをやるとしたらスマホで撮影の一択でしょう。やらないけど。笑。

使うフィルムは24枚撮りにするか、36枚撮りにするかとか、フィルムの単価と現像にかかる費用のことを気にせずに、撮った写真をすぐに確認できる今の時代は幸せです。

フィルム枚数のことを気にする気持ちは、若い人には何のことやら伝わらないかもしれませんね。でも、いま「写ルンです」のフィルムカメラに若い子がハマっているらしいなんて話を聞いたりすると、なんとなく嬉しくなってしまいます。

今では到底捻出できない費用。

ビンボー主婦になった現在から考えると、当時は費用をかけ過ぎてたな…と思います。あの頃は独身でしたし、私にとっての年に一度の「まつり」だったのだと思います。会社があったのは「ねぶた」のご当地・青森市でしたし。

スタジオ撮影の代金、カメラ店での現像代金、白抜き用版下のフィルム制作の代金、フジカラー写真はがきの制作代金。この頃は100枚程はがきを発注して、手元に少し残して、あとは仕事関係で名刺を交換した人など、ちょっとした知り合いにもバンバン投函していました。

 

完全に何かに取り憑かれてました。

何かとは、色々な意味で「未来」を切り開きたいような、現状を打破したいような気持ちであったと思います。私の人形を通じて、人と繋がりたいような気持ち。

特に何かの役に立ったりするわけでもなく、ちょっとウケを狙うような自己満足に過ぎないのに、作らずにはいられなかったです。そして年賀状として完成せずにはいられませんでした。若かったな。
ちなみに、この記事を書くのに、デザインやレイアウトを大体考えて、試しに作ってみる完成見本のことを表す、専門のデザインの用語があったよなぁ~と思い起こしてみましたが、なかなか出て来ませんでした。

そのことを頭の隅で考えつつ、一晩寝て朝になったら急に「カンプだ!」と思い出しました。老いぼれた脳みそでも、検索せずに自力で考えることで、休眠中だった脳細胞?も思い出してくれました。アラ還ならではのリハビリです。

 

久々の油野さんとの会話。

2023年の秋、実家から持ち帰った人形などを改めて見て、そろそろブログを始める準備をしようと、写真の著作権について調べてみました。そして、作った人形の権利は私にあるけれども、写真については撮影した人に著作権があると知り、愕然としました。

私は自分の作品をアップできないのだろうか?それともいくばくかの使用料金が発生するのだろうか?と思い悩みました。金銭的に余裕もないので。

ホームページからアドレスを探して油野さんにメールを差し上げ、20年ぶり位に電話で問い合わせてみました。すぐに「いいよ。全然問題ないよ~」と写真の使用許可をいただけました。本当に安心しました。感謝です!

以前は青森市の港町にスタジオがあったのですが、今は青森市花園の方に新しく建てたそうです。撮影の方は今は息子さんがメインでやられているそうです。ああ、ここでも隔世の感です。

久しぶりにお話しできた油野さんも、最初に電話口に出られた奥様も、昔のまんまの雰囲気で、とても気さくで明るく、フレンドリーでした。ああ、時を経ても変わらずにいて下さってよかった。そして、私のことも覚えていてもらってて、よかった~。

 

では次回から、「燃えよ!ヤスコ」人形の衣装と、ネイキッドの人形の構造を紹介したいと思います。需要があるかわからないですけども…。弱気。

衣装はブルース・リーの写真を参考に、自分でテキトーな型紙を書いて、自分で縫いました。あやつり人形の構造の撮影のために、人形に着せていた衣装を脱がせる時は自分でもドキドキしました。もしかしてブルース・リーに倣って上半身裸か?…だったら発表できないかも…、とも思いました。

24年前の自分がどんな風に作っていたか、衣装で見えない部分の構造を自分でも忘れていたから、ドキドキしました。何だか、アホみたいですね。

この続きは「初めて作ったあやつり人形/その②」で。

更新に時間がかかりそうですが、気長にお待ちいただければ幸いです。削ろうとしてもついつい文字数が増えてしまい、推敲にも時間がかかってしまいます。

 

ちなみに、ブログを始めるにあたり、全く違うニックネームを使う選択もあったのですが、アップしたい写真に既に「ヤスコ」の文字が入ってしまっているので、ヤスコの名前を使うことにしました。何となく、痛し痒しです。

郵便料金値上げに対する、30年前のささやかな抵抗。

 

1994年に出した年賀状です。

郵便料金値上げについて

2024年10月1日から郵便料金が変わりました。

通常はがきは63円から85円と、いきなり22円のアップです。84円だった封書も110円です。庶民の私にとって、手紙を出すことはもはや「贅沢」なことになってしまいました。

それにしても、今回の郵便料金改定は痛い値上げです。これでは余計にメールやラインに頼るしかないです。土曜日の配達も無くなって不便になった上に、大幅な値上げ→郵便の流通量が減る→赤字が増えて、また値上げせざるを得ない…。完全に負のスパイラルですよね。

30年前の話になりますが…

1994年1月24日にも郵便料金の値上げがありました。

はがきは41円から50円、封書は62円から80円に引き上げられました。値上げの時期が、年賀状のやり取りが過ぎてからなのが「惻隠の情」というか、まだ国民に対して配慮がありました。

今回の料金改定が、年賀状の時期より前なのが憎らしい限りです。それだけ赤字が切羽詰まった状況なのでしょう。大丈夫かな?日本の郵便事業の行く末…。

さて、冒頭のはがきは、1993年(平成5年)当時、神奈川県の秦野市に住んでいた、高校時代からの友人T子に出した年賀状の表書きです。(住所と宛名は一部消してあります。郵便番号がまだ五桁の時代でした。懐かしい。)

新年の1994年はちょうど「戌年」でした。そこでひらめいたアイデアがこの方法で。

当時の2円切手が秋田犬だったのを利用して、年賀状の表サイドに2円切手20枚と1円切手1枚を貼って、当時のはがきの料金41円にして出しちゃいました。

郵便料金を値上げする郵政省に対して、私なりにちょっとした抗議の気持ちを込めたのです。所詮、ごまめの歯ぎしりですけどねー。

よく見ると、平成5年12月30日の弘前局の消印が連続して押されています。私は毎年、年賀状は年の瀬も押し迫ってから投函してたものですから、この日付になったと思われます。しかもこの、常軌を逸した切手の貼り方なので、消印を押すのはたぶん手作業で行われたことと思います。

その節は余計なお手数をおかけしましたッ!

 

その年に投函した年賀状は30枚位だったでしょうか? もはや記憶にありませんけれど、投函した年賀状の全てにその策を施しました。郵便局で2円切手をでっかいシートで買って、怪しがられた? 記憶は残っています。

はがきに、切れ目のない連続した2円切手を20枚ドーンと貼るために、私製はがきに許される規程ルールの最大のサイズ(107mm×154mm)に厚手のワトソン紙を切って、手製のはがきを作りました。

ちなみに私は、現行の「うさちゃん」の2円切手よりも、当時の「秋田犬」の切手が今でも好きです。2円切手はこの秋田犬の図案を変えなくても良かったのになぁ。旧2円切手、いま見たら「レトロ」っぽくて、かえって可愛くないですか?

硬派で真面目でシブいのに、一周回って可愛いと思うんだけどな。いいデザインだったのに定番から外されたのが惜しまれます。

逆に「日本近代郵便の父」と称される前島密の1円切手のデザインは、この先郵便料金を値上げしたとしてもテコでも変えないんでしょうね。何だか、モヤモヤします。

でも、そもそも郵便に功績のあった偉人を、最初から「1円切手」にしちゃったセンス自体は好きですけどね。草葉の陰で「この吾輩を1円にするとは!」って怒ってないかな?

優秀な外付けHDDのような友人T子。

さて、この当時の受取人の友人T子に対して、私はこの春にラインで(笑)、近況を報告しがてら、頼みごとをしました。

▶前から挑戦してみたかったブログを始めようと思っていること。

▶そのために、過去に私が作った年賀はがき等を探していること。

▶昔、その友人の誕生日にプレゼントした手芸の額をまだ持っているなら、貸してほしいこと。

すると彼女はその額の他に、私が過去に彼女に宛てて出した郵便物を全て保管しており、今回貸してくれました。

この冒頭のはがきの他に、自分でも「うざっ!」と思う程の、饒舌な手紙たちの束とも思いがけず再会できました。そして、よくぞこんなの今まで捨てずにいてくれたもんだ!と、とても感激しました。

当時、投函しただけで既に用を成したはずの手紙たちとの思わぬ再会。

今から思えば、私は周りの子たちに比べるとかなりコミュ力が低かったと思います。実はシャイな面もあるのに、コミュ力が低い故の饒舌。そんな私が、安心して人と関わっていけるような気がした一番の手段が「郵便」だったと思います。

私は日記などは三日坊主で続かないタチなのですが、異常な筆まめでした。

「スマホ」のような便利な物などなかった80年代半ば。高校卒業後に進路が分かれてしまった友人たちに、何かっていうとウケを狙ったはがきや手紙を出していた私。お金は無いけど、おかしなことを夢想する時間と、手紙を書く時間だけは潤沢にありました。

あたかもタイムカプセル。

そして令和の今、かつて彼女に宛てて書いた【いにしえ】の自分の手紙を読み返すと、まるで古い日記を読むような気持ちでした。

昔埋めたタイムカプセル、しかも自分で埋めたのをすっかり忘れていたカプセルを、30~40年後に掘り起こしたような驚きにも似ています。「あー、たしかに当時、そんなことあったなぁ」と色々な記憶も甦り、懐かしい気持ちになりました。それと同時に、かなりイタいヤツだったな自分は…、という感じもしましたが。笑。

まさか人に出した手紙を、30年後に自ら読むことになろうとは思ってもみませんでした。何が起こるかわかりませんね、長く生きると。

それにしても、しょーもない時間つぶしに付き合わせるような私からの手紙の束を、昭和から令和の長きに渡り、捨てずに大切に保管しておいてくれたこと、そして改めてまとめて貸してくれたこと。T子には本当に感謝です。持つべきものは、整理上手でマメな友人です。私と真逆!

今回借りたはがきや手紙を元に、いろいろ過去に作った品々を紹介して行きたいと思います。

見切り発車的スタート。

はじめまして。ヤスコと申します。

初投稿にあたり、自己紹介のようなことを少し…。

 

生まれも育ちも弘前の津軽人

縁あって津軽から秋田に嫁ぎ、秋田県民となりました。

長い間住んでいますが、私がしゃべる言語は相も変わらず「津軽弁」です。

 

秋田県の中央部地域に住んでいる、特に若い方々は、意外にもあんまり秋田弁を話さないのです。割と共通語っぽいの。同じ北東北なのに、とても不思議です。

(お年寄りは結構どっぷりと秋田弁ですけどね。)

 

私は津軽弁しかしゃべれない、…否、

津軽弁しかしゃべる気がない、じょっぱりなのです。

 

じょっぱりとは、津軽弁で「意地っぱり」「頑固者」のことです。

私は、じょっぱりで偏屈。おまけにあきらめの悪いこじらせ系です。

表面的にはヘラヘラしているので舐められがちですが、実はじょっぱりです。

 

念願のブログ開始!のはずが…

さて、このような私が、以前からやってみたかったブログを始めようとして、初めてWindows11(中古マシン)を使い、初心者のくせによくわからずに「日本語ドメイン」を

「何らかのオタク」と取得して、

「はてなブログpro」にいきなり契約しました。そう、やるしかない状況を先に作ってしまいました。それが2月のはじめのことでした…(遠い目)。

 

しかも自分を杜撰に「オタク」とくくってしまいました。

今思えば、軽はずみなネーミングだったかもしれません。でも、何かのオタクっぽい感じではある、との自覚はあります。よく考えたら「オタク」というより、実は「何らかのサブカル系」だったかも?と思ったりもしましたが、もう変えられないので、決めたドメインでやりますけどね。

 

取得した肝心の日本語ドメインが、はてなブログ上では国際化ドメインに変換され、そこからうまく日本語に変換できぬまま、怪しい英数文字の羅列に表示されています。

 

はてなサポート窓口にもご相談したのですが、ドメインを取得した会社のお問い合わせフォームにたどり着くことができず、具体的にどう対処したらいいのかよくわからぬまま…。もうどうすりゃいいのかお手上げで困ってしまい、時間がただ過ぎて行くばかりで半ば諦めつつ、放置しています。いろいろな能力が低い自分が悲しい。

 

実際に操作や設定をしてみると、他にもわからないことがどんどん出て来て…。

 

プライバシーポリシーやお問い合わせフォームをサイドバーに設定する作業にとても手間取り、サポート窓口に教えを請うたり、いろいろな方々のブログを参照して、へこたれそうなくらい時間がかかりました。まだわからないことが山積みです。

もしかしたら私のブログの初期設定、不完全かもしれません。

これから書いていくつもりの記事も、操作ミスなどで間違えて消したりしないように注意して、色々と快適な環境になるように勉強してながら続けていきたいと思います。

 

私のような機械音痴こそ、変な欲を出さずに無料ブログから試運転を始めるべきだったのかもしれません。なんつったって「ちゃかしこ」だもんで、「思い立ったが吉日」的に暴走してしまいました。

 

ちゃかし あるいは ちゃかしこ とは

津軽弁で「おっちょこちょい」「あわてんぼう」「そこつ者」のことを「ちゃかし」といいます。完全にネガティブな意味です。

ただし「こ」がつくとちょっと可愛げ気があります。自分のIDを「ちゃかしこ」にしたのは、自分で自分に甘いせいかもしれません。

 

さて、はてなブログProに契約して割と日が浅かった2月半ばにコロナにやられたり、冬期間、我が家に重機で豪快に雪かきに来てくれる近所のおっちゃん(ほぼボランティア)に、今度は逆に春の田んぼの苗の種まき作業?の手伝いを頼まれました。

断り切れずにビニールハウス内で土運びをしたりと、なんだかんだとやってるうちにパソコンにも触らないという、こんなはずでは…の日々。

 

さて、やっと色々落ち着いて、ブログの作業に取り掛かろうとしていたら、いろいろな事情で今度はパートに出なくてはならなくなりました。わはは。

スマホを使い「Indeed」で仕事を探し、久々に履歴書書いたり、面接したり…。ハローワークに行かなくていいので、そこは本当に助かりましたけどね。

 

ブログ開設の準備作業も序盤からとんでもなくつまずいて、私には無理だったのかも…と、始める前からネガティブな気持ちも沸いて来ています。そして新たにパート勤めしながらさらにブログだなんて、本当に私に出来るのかな?と思います。ブログ開始時期、間違えちゃったかも。

でも、やるんだよ!

の声がどこからか聞こえてくるような気がして、私を後押しします。

ま、最初に払った費用を無駄にしたくないし、改善策と記事を考えたいと思います。色々な順番がとっ散らかってる私。

こんな者ですが、よろしくお願いします。

追記

一旦この記事をアップしてから、何回も推敲を重ねています。全く前に進んでいない感じです。直すたびに毎回、読者がゼロで本当に助かっています。無意味。笑。

ネットの大海原に手漕ぎ舟で出航しては、元の岸に戻って来てるような状態です。