何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

自作・あやつり人形#6/メガネ編

メガネの作り方

作りたいサイズの筒に針金を巻き付けて作っていきます。

作り始めはあらかじめツルの部分を残しつつ、一筆書きのようにフレーム(リム)部分→ブリッジ→フレーム(リム)部分と作ります。

できたツルを90度に折り、ツルの先を人形の耳に沿わせて丸めます。

▼左右対称になるように作ったメガネを上から見たところ。

そのままでもメガネとして使えますが、私の人形のメガネはジェッソという塗料で白く盛っています。

ジェッソに浸したところ

結婚前から使っていたジェッソが残っていたので、今回の見本を作るのに、久々に蓋を開けてみました。約20年前の残りですが、トロトロとして凝固はしてませんでした。

メガネをジェッソのボトルにドボンと浸して、付き過ぎた液は口で吹いてボトルに戻します。

▼ジェッソを使う時は、使い捨ての手袋を付けた方がいいです。あと、下に新聞紙などの紙も敷いた方がいいですよ。

▼塗装が終わったら、発泡スチロールなどにさして、浮かせて乾かします。

私が作る人形のメガネにはこのジェッソの白を活かしていますが、アクリル絵の具で好きな色に塗っても面白いと思います。

完成形はこれ

人形、衣裳、メガネについて長々と語ってきましたが、やっと完成写真を公開できます。

人形を吊るす棒は、ホームセンター等で買った木材を適当な長さに切って、カタカナの「キ」のような形に垂直に組み合わせ、釘で固定し、あやつり紐を通すヒートンを取りつけます。

あやつり棒に付けたヒートン金具と、人形につけたヒートン金具に紐を通して、あやつり人形として操作しやすいように紐の長さを調整します。

紐の先には木製のわっかを付けて、〈滑り止め〉兼〈操作の部品〉にしました。

最後にひとこと

写真と文字だけで人形の作り方を説明するのは、思ったより大変でした。
でも、あやつり人形を作ってみたい方の参考になったら嬉しいです。

次回は新年になってから、2001年の巳年用に作った【羽子板】を紹介するつもりです。

2025年が良い年になりますように。

自作・あやつり人形#5/衣裳編

 

自然光の下ではこんな感じ

▲スタジオ撮影時に持たせていた、自作のミニ・ヌンチャクを失くしてしまったようなので、代わりにシャーペンを持たせてみました。大体のサイズ感がわかると思います。

ちなみに持っているのは、ぺんてるの「マークシート記入用」のシャーペンで、芯は1.3㎜のB。鉛筆並みに太く濃く書けるのが気に入って、愛用しています。

ホコリっぽいことの言い訳

長い間、蓋のない箱に入れて実家に放置していたので、写真をアップにすると衣裳の表面に細かいホコリが付いています。

ザッと、ブラシやコロコロをかけてみましたが、生地の色あせもあいまって、全体的に白っぽく写ってます。

かと言って、洗ってボロボロになると元も子も無いので、現状で投稿します。

後年、ブログに載せると考えていたらもっと違った保管をしていたな。てへ。

上着の打ち合わせ部分

▲紺色のブロード生地を使った手縫いです。

中心線で左右の前身ごろを突き合わせにしつつ、裏でホックで留めています。

合わせ目の奥に白いレオタード(笑)が見えないように、裏布を付けています。

最終学歴は洋裁学校卒(笑)

私は国公立大学に進学する学力も、私立大に進学する金銭的余裕もありませんでした。

かと言って就職するのも考えられないという、とんでもない甘ちゃんでした。

今の私なら、当時の自分に「四の五の言わずに働きなさい!」って言いますね。

 

高校卒業後、モラトリアムの期間が欲しくて、地元弘前の専門学校で2年間洋裁を習いました。

元々、デザイン系の学校に行きたかったのですが、弘前にはデザインの専門学校は無く。先に就職してお金を貯めてから、近隣県のデザイン学校に通う、という知恵もありませんでした。

通学していた洋裁学校のデザイン画の授業は好きでしたが、肝心の洋裁自体はあんまり向いていなかったかもと思います。

そして、そこから迷走人生が始まりました。自業自得。笑。

自己流カンフー衣裳

▲カンフー衣裳のチャイナボタンは、幅の細いテープを使いました。

中央で一回結んで裏面に両面テープを貼り、縫い上がった衣裳に直接貼りました。

▲見えないところの布は切りっ放し。今ならほつれ止め液を塗るでしょうね。

▲衣裳のサイドは少し縫い残してかんぬき留めをして、スリットにしています。

スリットの内側に白い布を付けて、重ね着しているように見せています。

▲袖口に白い布を縫い足して、袖まくりしています。襟はスタンドカラーです。

重ね着しているように見せるために、内側に白い布でカラーを縫い付けています。

縫い目はもうテキトーです。

▲ズボンはゴムの入っていないパジャマのように作りました。

▲抜け殻のようですね。見えないところは布も裁ちっ放し。

人形に着せて、ズボン丈のちょうどいい所で、ウエストの縫い代を決めたようです。

製図はリカちゃん本を参照

当時、衣裳の製図をする時に参考にしたのは「日本ヴォーグ社」から出版されている、「わたしのドールブック」シリーズのリカちゃんの着せかえ服の作り方の本です。

自分の作ったあやつり人形のボディーサイズを採寸し、リカちゃん向けの長袖シャツやパンツの製図を参考にして、あやつり人形向けに補正した型紙を作りました。

 

実際の布地を裁断する前に

1)まず、クシャクシャに揉んでやわらかくした製図用紙(薄い包装紙も可)で、ぬいしろ込みで製図通りに作ってセロテープで留めて組み立てる。

2)実際に人形に着せて仮縫い代わりにしてみる。

3)製図を補正してから、紺色のブロード生地を裁断して手縫いをする。

…の順番で本番の衣装を作りました。

※クシャクシャに紙を揉んで仮縫いをする方法は実際に洋裁学校で習いました。

おすすめの着せかえ本

日本ヴォーグ社の「わたしのドールブック」シリーズは絶版となり、いま入手しようとするとプレミア価格になっています。

現在はリカちゃん人形に限らず、ブライスなどの色々なドールのアウトフィット本が出版されていますから、書店の手芸本コーナーで探してみてもいいと思います。

いま発売されているリカちゃん人形向けの本で、私がいいな~と思って思わず買い揃えちゃったのは「ブティック社」の「リカちゃん着せかえソーイングBOOK」1、2、3です。洋服の見返し部分にチュールを使ってかんしで返すという手法に感心しました。

 

パートに出る前は、大量にストックしてある生地を使って、リカちゃんやブライスなどの22cmドール向けの服や着物を作って、フリマアプリで売ってみたいなぁ~なんて、ぼんやりと考えていました。ま、フリマアプリで売るなら、きちんとミシンで縫って、完璧に作らないとダメですけどね。

次回は、メガネの作り方を紹介する【メガネ編】です。

自作・あやつり人形#4/素材と連結編

石塑粘土「ラドール」


材料は、パジコの石塑粘土「ラドール」です。

人形は石塑粘土でできています。

粘土をこねて年賀状用に人形を作るのはこれで6体目でした。

90年代には同じラドールのラインナップに、粒子の荒い芯材用粘土もありました。

柔らかくて取り回しが効いたので、人形の芯の部分には荒いのを使っていました。

残念ながら、今は生産されていないみたいです。

現在のパジコの石塑粘土のラインナップはこちら。

1)ラドール (私が使ったタイプ)  500g入り

2)ラドール プルミエ      300g入り

3)ラドール プレミックス    400g入り

4)アーチスタフォルモ         500g入り

 

ラドールは乾燥して固くなると耐久性も増し、彫刻刀などで削って好きな形に加工することができます。

紙やすりをかけて表面をスベスベにしたり、金属のやすりを使って大胆に削ることもできます。面白い素材なのでハマりました。

ちまたによくあるような紙粘土も使ったことがありますが、ラドールを使ってからは紙粘土には戻れなくなりました。

特に(1)のラドールは、乾燥してからも重量感が出ること、乾燥してからも加工が効くことが紙粘土とは決定的に違い、仕上がりもきれいで使いやすいと思います。

連結はヒートンという金具

あやつり人形として動かせるように、粘土と粘土の間の関節部分はヒートンという金具で繋いでいます。

ヒートンの丸くなっている部分を開いて、連結させました。

売っている中で一番小さいサイズのを使いました。

 

▼これは見本用に、なんでも売ってる近所のスーパーで、最近買いました。

▼ヒートンのすき間にマイナスドライバーを差し込んで少し開き(写真右側)、知恵の輪をつなげるように連結します。

▼連結したらラジオペンチなどで締めます。

ヒートン2個で一組です。

このドラゴン人形に使われているヒートンは、今では青く錆びて?変色していました。当時こんな色に彩色してたっけ?と思いつつ、ネットで調べてみたところ、真鍮は空気に触れると酸化して、水分によって緑青と呼ばれる錆が発生するようです。

緑青と言えば、銅だよな…。

そう思い調べてみたら、真鍮って銅と亜鉛の合金なのだそうです。知らなかった。

作ったのは四半世紀近く前ですからね、そりゃ錆びもするわ。

作ったばかりの時は金ぴかだった連結部分も、今では青く変色しています。

 

▼トップの画像の後ろ姿。

指先のヒートン

あやつり紐をつけるために、指先にもヒートンを一個埋め込んでいます。

ま、埋め込んだというよりは、ヒートンの周りに粘土を盛って手の形に形成したかと思います。

手首と前腕も可動式になるように、連結ヒートンでつないでいます。

頭のてっぺんには単体のヒートンを一個付けています。頭のてっぺんが吊られることによって、背筋がピンと伸びて直立できるようになります。

本物のあやつり人形がどのように作られているか、当時ネットなどを使って調べたのですが、結局は探し出せず、苦肉の策で考えたヒートン連結でした。

あやつり人形の作り方

あくまでも、私流の作り方ですが…

1)まずはラドールを任意の大きさにまるめ、頭部から作ります。

目・鼻・口などの細かい部分は粘土ベラを使います。頭の大きさとバランスを取って、ボディー、次に手足等を作って乾燥させます。乾燥すると堅くなります。

2)乾いたらカッターや彫刻刀を使って形成させます。削り過ぎたら、粘土を盛って修正しながら、頭部と顔面、胴体、腕や脚など関節ごとに部品として完成させます。

3)形成が終わったら、紙やすりで表面をなめらかに整えます。

4)リキテックス ジェッソという下地剤を、筆やハケを使ってコーティングしてから、さらに乾かし、紙やすりで表面をなめらかにします。

5)アクリル絵の具で彩色します。

6)絵の具が乾いたら、バランスを見ながら連結ヒートンをねじ込んでパーツをつなげます。

…って、こんな文章だけで、作り方が伝わるかな?

撮影してからの後悔

四半世紀経った現在の目で当時の写真を見ると、おたけびをあげた口の中に白い歯をつけるべきだったなぁと思います。

何だか入れ歯を外した男が叫んでいる瞬間…みたいに見えて、残念です。

参考にしたブルース・リーの写真も、ほぼ歯が見えていたのに…。

自分では口をすぼめたイメージに作ったのですが、本番の撮影の角度で歯のない顔に見えてしまいました。

撮影に立ち会って、自分でもカメラマンさんのポラロイドの写真で確かめたのに、大きく引き伸ばして現像してから、口元のやすりがけの甘さ、造形の甘さに気づきました。

時、既に遅し。

毎回、どこかに作りの甘さが出てしまい、来年こそは納得の行く造形を!の連続でした。

ぶっつけ本番、年に1回だけ、しかも年末に焦って作ってたのが甘さの原因だったかもしれません。

次回は、カンフー衣裳を紹介する【衣裳編】で。

自作・あやつり人形#3/構造編

ドラゴン・ヤスコの構造

▲サイズは、身長/約27cm、頭囲/約18cm、頭部タテ/約7.5cm。

 

まずは、構造を撮るためにカンフー衣装を脱がせて、とりあえず「きをつけ」させてみました。

脱がせるのに邪魔だったあやつり紐は、はずしました。

ネイキッドの姿を「白いレオタード姿?」に作っていたのを、自分でも忘れてました。

どんな風に作っていたっけ?とドキドキしながら、24年ぶりに衣装を脱がせてみて、【裸】じゃなくてなんとなくホッとしました。

メガネも外してポージング

 

うしろ姿はこんな感じ

壁に向かって落ち込んでいるように見えますね。

衣装を着せる前提で作ったので、おしりは盛り上げずにスリムに作りました。

胴体と脚の接続部分

ちなみに、足首は写真のような可動式にしない方がいいです。

膝から下のすねと足の部分は「長靴」のように一体化させる形に作るべきでした。

スタジオ撮影の時に、どうしてもバレリーナのつま先立ちみたいなってしまい、足の裏が地に付かず、うまく固定できずに苦戦しました。

頭から吊って、普通に立たせるのに時間がかかりました。

次にあやつり人形を作るなら、足の中にちょっとおもりを付けて、長靴みたいに作りたいと思います……て言うか、もう二度と作らないと思いますけれども。

 

次回は、人形制作の材料を紹介する【素材編】を。

自作・あやつり人形#2/撮影編

 

プロカメラマンとの邂逅

このドラゴン・ヤスコの年賀状の写真は、プロのカメラマンさんのご厚意で格安で撮影していただきました。(※残念ながら左側にちょっと指紋?がついていますが、当時はもちろんまっさらでした)

 

お願いしたのは、青森市のコマーシャルフォトスタジオ「スタジオクルー」の油野さんです。ご興味のある方はこちらにアクセスしてみて下さい。

http://studiocrew1193.web.fc2.com

当時、私の勤めていた職場に、かつて油野さんと同じデザイン事務所で働いていた上司がいました。

仕事で必要になった撮影を、その上司の仲介でクルーさんに依頼したのを口実?に、旧交を温めつつの「懇親会」みたいなゆるい飲み会が開催されました。その席に、先輩や同僚と共に私も参加しました。

私は、その時は油野さんのことを全く存じ上げませんでした。

でも、独特なライティングが印象に残る、あの素敵な夕景の外観写真を撮ったプロのカメラマンさんとお話しできるチャンス!と思い、ワクワクしていたのを覚えています。

飲み会に持ち込んだスナップ写真

その飲み会の2年ほど前から、私は私個人の年賀状向けに人形制作を始めていました。

作品を撮影するのに、当時使っていたコンパクトカメラでは飽き足らなくなっていました。

とにかく「接写」がしたくて、清水の舞台から飛び降りる気持ちでキヤノンの一眼レフEOS(アナログカメラでレンズは50㎜マクロのみ!)を購入しました。

初めて作った亥年向けの人形と、次の年の子年向けの人形のスナップ写真を、その一眼レフで撮りました。

当時は焼き増しした生の写真そのものをはがきに貼り付けて、年賀状にしていました。
ちなみに、私のブログのアイコンは初めて作った亥年の人形です。

思いがけない幸運

さて、ワクワクしながら参加した懇親会には、その亥年と子年の2枚のスナップ写真を持参して参加しました。

今後、より良い写真を撮るために、今日お目にかかるカメラマンさんから何かアドバイスをいただけたら…と、かなり図々しいことを思っていました。

みんな気持ちよく酔って宴も少し落ち着いたところで、私は自分で撮った2枚の写真を取り出しました。

油野さんに、自分で作った人形の説明をして、撮影の時のライティングの相談など、いろいろ聞きたい事を質問攻めにしていたら、「俺が撮ってやるよ」と言って下さいました。しかも破格の料金で!

そんな展開になるとは全く思ってもみなかったので、ビックリしました。

上司がらみの【友達割り】が効いたかとも思いますが、油野さんのお人柄から察するに、何かにチャレンジする人を応援したい気持ちからだったかと思います。

その翌年の1997年、丑年用の年賀状から撮影をお願いすることになりました。だから、この辰年の人形で4回目のスタジオ撮影になります。

はがきを発注したカメラ店

はがきの文字の白抜きは自分で作った版下を持ち込んで、青森市内の青い森公園向かいにあった某カメラ店の現像でやっていただきました。毎年、年の瀬になってから私が持ち込む面倒な注文に応えていただき、大変お世話になったものです。

訳のわからん女(←私)の持ち込む謎のフィルムを撮影したのが、あの「スタジオクルー」の油野さんだと知ると、カメラ店主さんには写真現像店としてのプライドが奮い立っているのを感じました。ま、そう感じたのは、私の思い込みだったかもしれませんが。

でも、撮影したのがスタジオクルーさん=油野さんじゃなかったら、年末の忙しい時期に持ち込まれる、手間のかかる発注は断られていたかもしれません。

その後のカメラ店

最近、ネットでそのカメラ店を検索してみたら地図から消えていました。あれ?と思って、より詳しい検索をしてみたら、2014年に破産手続きを開始したとありました。

同業他社との競合激化や、カメラ付き携帯電話の普及で需要が激減して業績の悪化で赤字決算になったようです。誰もがスマホで写真を撮るような時代になりましたものね。隔世の感を感じます。

私自身も今ではアナログの一眼レフを全く使っていません。今ではスマホのカメラで十分になっちゃってます。

自分で撮ったスナップ写真

スタジオ撮影の前に、出来上がりのイメージを伝えるために、私も一眼レフで色んな角度、色んなポーズで何枚もスナップ写真を撮り、叩き台にしていました。

使ったのは24枚のフィルムだったか、36枚のフィルムだったか。

12枚では足りなかった記憶があります。現像してみた中から、より自分のイメージに近い写真を探し出し、撮影イメージの見本として提示しました。

今では到底捻出できない費用

ビンボー主婦になった現在から考えると、当時は費用をかけ過ぎていたかも…と思います。あの頃はまだ独身でしたから、今よりは自分のためだけに自由に使えるお金もありました。

自分で作った人形をプロのスタジオで撮影してもらい、年賀状プリントすることが、私にとっての年に一度の「まつり」でした。

人形の素材の石塑粘土や小物等の材料の代金、スタジオ撮影の代金、カメラ店での現像代金と白抜き用版下のフィルム制作の代金、フジカラー写真はがきの制作代金。

この頃は100枚程はがきを発注して、手元に少し残し、あとは仕事関係で名刺を交換した人やワークショップで知り合った人など、ちょっとした知り合いにも名刺代わりにバンバン投函していました。

完全に何かに取り憑かれてました。

何かとは、色々な意味で「未来」を切り開きたいような、現状を打破したいような気持ちであったと思います。私の人形を通じて、人と繋がりたい気持ちと申しましょうか…。

特に何かの役に立ったりするわけでもなく、ちょっとウケを狙うような自己満足に過ぎないのに、作らずにはいられなかったです。若かったな。

久々の油野さんとの会話

2023年の秋、実家から持ち帰った人形などを改めて見て、ブログを始める準備のために、写真の著作権について調べてみました。そして、作った人形の権利は私にあるけれども、写真については撮影した人に著作権があると知り、愕然としました。

私は自分の作品をネット上にアップできないのだろうか?金銭的に余裕もない中、さらにいくばくかの使用料金が発生するのだろうか?と思い悩みました。

ホームページからアドレスを探して油野さんにメールを差し上げ、20年ぶり位に電話で問い合わせてみました。すぐに「いいよ。全然問題ないよ~」と写真の使用許可をいただけました。本当に安心しました。感謝です!

以前は青森市港町にクルーさんのスタジオがあったのですが、今は青森市花園の方に新しく建てたそうです。撮影の方は今は息子さんがメインでやられているそうです。隔世の感です。

久しぶりにお話しできた油野さんも、最初に電話口に出られた奥様も、昔のまま、とても気さくで明るく、フレンドリーでした。ああ、時を経ても変わらずにいて下さってよかった。そして、私のことも覚えていてもらってて、よかった~と思いました。

 

次回は、衣装を脱がせた人形を紹介する【構造編】にて。

自作・あやつり人形#1/着想編

いきなり6作目から紹介

これは2000年(平成12年用)の年賀状のために作ったあやつり人形です。

20世紀末期から21世紀初頭にかけて(←大げさ)、私は干支にちなんだ自分の「分身」を、合計で8つ作りました。

1995年の亥年から2002年の午年までの8年間です。

始めた当初は、干支を一回りする野望があったものの頓挫してしまいました。


2002年、結婚による転居で、自由な雰囲気のあった職場を辞職。

そして、何か閃いたら頭がそのことで一杯、しかも次々と別の物にハマって徐々にいろんな物が堆積していくというカオスな性分の私が、整理整頓好きな姑と同居……などの環境の変化。ごめんなさい!お義母さん。てへ。

そしてリアルな「分身」(年の差3歳・一男一女)が生まれて、「平和」に暮らすには優先すべき事柄が変わってしまいました。

今なお、自由にこもれる自分だけの部屋もなく、モノづくり自体も中断したまま、干支ばかりが巡る日々に。気づけば、あれから干支もふた回り…。

24年も経ったのかぁ。年も取るわけだよ、と思いました。

 

この人形から紹介する理由

さて、「8つの分身」の中からこの人形を最初に発表するのは、2024年の今年が辰年だからです。辰年と言っても残りは、ま、正味2カ月と数日しかありませんけど。

ああ、こんなハズではなかったのに!

しかもうかうかしているうちに、来年は還暦なのです。

誰かに頼まれたり、命令されたりしたわけではないけれど、辰年の今年のうちにアップさせないと!と、自分だけで焦っています。

ま、そもそも干支が二回りしてる時点で、焦る必要はないのかもしれませんが、還暦ということも、なんだか私を焦らせているようです。悪あがきか?

ちなみに、ブログを始めるにあたり、全く違うニックネームを使う選択もあったのですが、アップしたい写真に既に「ヤスコ」の文字が入ってしまっているので、ヤスコの名前を使うことにしました。何となく、痛し痒しです。

この1~2年の状況

昨年、2023年の夏、お盆に帰省した時に実家からこれまで作った人形などをまとめて連れてきました。

最後の年に作った午年用の「自作・市松人形」だけは特別な思い入れがあって、嫁入りの時から連れて来ていたのですが。

 

そして年が明けて2024年1月、少し早い誕生日プレゼントとして、ダンナから中古のパソコン(Windows11)を買ってもらい、今年こそ、念願のブログを開始するぞ!と思っていました。

、当時高2だった娘が急に県外の大学に進学したいと言い出しまして…。

既に、県外の大学に進学している息子の学費等でシャレにならない状態な上、娘も県外志向ということで、進学資金準備のために、やむなく近所のスーパーにパートに出ることになりました。涙。

時間に追われる慣れない立ち仕事で、段取りを覚えるのに想定以上の時間がかかり、毎日くたくた。

このままではイカン!と、やっとブログに着手したのが秋でした。おそっ!

 

ブログを書く前に、まず使い慣れないウィンドウズ11のパソコンの操作に苦慮。(私はもともと古い時代のMac愛用者でしたが、iMacもiBookも壊れて使えない状態。涙)

そして実際に日々のパート勤めなど、色々ジタバタやってみての感想は

1)私に並行作業は難しい。

2)新しいことを始めたり覚えたりするのが昔より困難になっている。

…とまぁ、この二つのことを実感しました。

イヤー・オブ・ドラゴン

このあやつり人形を制作した時も、1999年の師走を目前に、かなり焦っていたと思います。…てことは、何年経っても全然成長していない、ということでしょうね。

当時は、来る新年が2000年という、千年に一度の特別な新年を迎える何となくめでたいような気がした初冬でした。

人形の題材を何にするか色々考えて、ブルース・リーに扮したヤスコ人形を作ることに決めました。カンフーの衣装を着せ、ヌンチャクを構えて「アチョー」と、おたけびをあげる瞬間の顔。脳内に鳴り響くBGMはもちろん「燃えよドラゴン」のテーマ曲。

前年までは普通(?)の立体作品でしたが、辰=龍(ドラゴン)=ブルース・リーだから、動きが欲しいな~と思い、作ったこともないあやつり人形に挑戦してみました。上から吊るされているだけなので、結局「動き」はなかったんですけどね。

ちなみに顔はあんまり自分に似てません。年賀状をもらった友人などは、自分だと思って作ったんだろうなぁと理解してくれたと思います。「記号」みたいなものですから。

ミレニアム、懐かしい響き

2000年は20世紀最後の年でした。当時、世に「ミレニアム」というワードが、どこからともなくやって来て、飛び交いました。

20世紀は1999年を区切りで終わると思っていた私は「え?キリがいいのに、2000年はまだ20世紀なんだ~」と思った記憶があります。無知。

西暦2000年になると、コンピューターが誤作動を起こす可能性があると、巷で騒がれていた「2000年問題」というのもありましたね。何だかよくわかんないけど「頭(あだま)いい人が、何とかするべ?(←津軽弁)」と私は思っていました。結果、頭のいい方々のご尽力のお陰か、はたまた杞憂だったのか、何事もなく新世紀になりました。めでたしめでたし。

この続きは【撮影編】にて。

郵便料金値上げに対する、30年前のささやかな抵抗。

 

1994年に出した年賀状です。

郵便料金値上げについて

2024年10月1日から郵便料金が変わりました。

通常はがきは63円から85円と、いきなり22円のアップです。84円だった封書も110円です。庶民の私にとって、手紙を出すことはもはや「贅沢」なことになってしまいました。

それにしても、今回の郵便料金改定は痛い値上げです。これでは余計にメールやラインに頼るしかないです。土曜日の配達も無くなって不便になった上に、大幅な値上げ→郵便の流通量が減る→赤字が増えて、また値上げせざるを得ない…。完全に負のスパイラルですよね。

30年前の話になりますが…

1994年1月24日にも郵便料金の値上げがありました。

はがきは41円から50円、封書は62円から80円に引き上げられました。値上げの時期が、年賀状のやり取りが過ぎてからなのが「惻隠の情」というか、まだ国民に対して配慮がありました。

今回の料金改定が、年賀状の時期より前なのが憎らしい限りです。それだけ赤字が切羽詰まった状況なのでしょう。大丈夫かな?日本の郵便事業の行く末…。

さて、冒頭のはがきは、1993年(平成5年)当時、神奈川県の秦野市に住んでいた、高校時代からの友人T子に出した年賀状の表書きです。(住所と宛名は一部消してあります。郵便番号がまだ五桁の時代でした。懐かしい。)

新年の1994年はちょうど「戌年」でした。そこでひらめいたアイデアがこの方法で。

当時の2円切手が秋田犬だったのを利用して、年賀状の表サイドに2円切手20枚と1円切手1枚を貼って、当時のはがきの料金41円にして出しちゃいました。

郵便料金を値上げする郵政省に対して、私なりにちょっとした抗議の気持ちを込めたのです。所詮、ごまめの歯ぎしりですけどねー。

よく見ると、平成5年12月30日の弘前局の消印が連続して押されています。私は毎年、年賀状は年の瀬も押し迫ってから投函してたものですから、この日付になったと思われます。しかもこの、常軌を逸した切手の貼り方なので、消印を押すのはたぶん手作業で行われたことと思います。

その節は余計なお手数をおかけしましたッ!

 

その年に投函した年賀状は30枚位だったでしょうか? もはや記憶にありませんけれど、投函した年賀状の全てにその策を施しました。郵便局で2円切手をでっかいシートで買って、怪しがられた? 記憶は残っています。

はがきに、切れ目のない連続した2円切手を20枚ドーンと貼るために、私製はがきに許される規程ルールの最大のサイズ(107mm×154mm)に厚手のワトソン紙を切って、手製のはがきを作りました。

ちなみに私は、現行の「うさちゃん」の2円切手よりも、当時の「秋田犬」の切手が今でも好きです。2円切手はこの秋田犬の図案を変えなくても良かったのになぁ。旧2円切手、いま見たら「レトロ」っぽくて、かえって可愛くないですか?

硬派で真面目でシブいのに、一周回って可愛いと思うんだけどな。いいデザインだったのに定番から外されたのが惜しまれます。

逆に「日本近代郵便の父」と称される前島密の1円切手のデザインは、この先郵便料金を値上げしたとしてもテコでも変えないんでしょうね。何だか、モヤモヤします。

でも、そもそも郵便に功績のあった偉人を、最初から「1円切手」にしちゃったセンス自体は好きですけどね。草葉の陰で「この吾輩を1円にするとは!」って怒ってないかな?

優秀な外付けHDDのような友人T子。

さて、この当時の受取人の友人T子に対して、私はこの春にラインで(笑)、近況を報告しがてら、頼みごとをしました。

▶前から挑戦してみたかったブログを始めようと思っていること。

▶そのために、過去に私が作った年賀はがき等を探していること。

▶昔、その友人の誕生日にプレゼントした手芸の額をまだ持っているなら、貸してほしいこと。

すると彼女はその額の他に、私が過去に彼女に宛てて出した郵便物を全て保管しており、今回貸してくれました。

この冒頭のはがきの他に、自分でも「うざっ!」と思う程の、饒舌な手紙たちの束とも思いがけず再会できました。そして、よくぞこんなの今まで捨てずにいてくれたもんだ!と、とても感激しました。

当時、投函しただけで既に用を成したはずの手紙たちとの思わぬ再会。

今から思えば、私は周りの子たちに比べるとかなりコミュ力が低かったと思います。実はシャイな面もあるのに、コミュ力が低い故の饒舌。そんな私が、安心して人と関わっていけるような気がした一番の手段が「郵便」だったと思います。

私は日記などは三日坊主で続かないタチなのですが、異常な筆まめでした。

「スマホ」のような便利な物などなかった80年代半ば。高校卒業後に進路が分かれてしまった友人たちに、何かっていうとウケを狙ったはがきや手紙を出していた私。お金は無いけど、おかしなことを夢想する時間と、手紙を書く時間だけは潤沢にありました。

あたかもタイムカプセル。

そして令和の今、かつて彼女に宛てて書いた【いにしえ】の自分の手紙を読み返すと、まるで古い日記を読むような気持ちでした。

昔埋めたタイムカプセル、しかも自分で埋めたのをすっかり忘れていたカプセルを、30~40年後に掘り起こしたような驚きにも似ています。「あー、たしかに当時、そんなことあったなぁ」と色々な記憶も甦り、懐かしい気持ちになりました。それと同時に、かなりイタいヤツだったな自分は…、という感じもしましたが。笑。

まさか人に出した手紙を、30年後に自ら読むことになろうとは思ってもみませんでした。何が起こるかわかりませんね、長く生きると。

それにしても、しょーもない時間つぶしに付き合わせるような私からの手紙の束を、昭和から令和の長きに渡り、捨てずに大切に保管しておいてくれたこと、そして改めてまとめて貸してくれたこと。T子には本当に感謝です。持つべきものは、整理上手でマメな友人です。私と真逆!

今回借りたはがきや手紙を元に、いろいろ過去に作った品々を紹介して行きたいと思います。