何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

「かくは」の包装紙

包装紙全形

「かくは宮川デパート」の包装紙

これは昔、弘前市にあった「かくは宮川デパート」で使われていた包装紙です。

「かくは」と言えば、ある年代以上の人には懐かしい思い出の詰まったデパートかと思います。

この包装紙は、実家の母が昔使っていた、昭和の古い編み物の本から出て来ました。しおり替わりに使っていたと思われます。

何かメルカリで売れそうな珍しい本はないかしらと探していた時に見つけ「わっ、懐かしい!」と思って、もらって来ました。

断捨離ブームの昨今、物を捨てられない母と娘(←私)が「奇跡」を見つけました。笑。

包装紙から得られた情報

スタンプ画像

包装紙に押されているスタンプ


包装紙には当時の日付のスタンプが押してあって、48.12.15となっています。昭和48年12月15日です。今から52年前、私が小学校3年生の冬です。古ッ!

それにしても何で日付のスタンプが押されていたのか。この引合って何?謎です。

他にセロハンテープの糊の跡が茶色く残っています。

包装紙の折り目が18㎝×10㎝×1㎝位なので、箱に入ったハンカチなんかをもらった時の包装紙だった感じでしょうか。

津軽にとっての「かくは」

かくはロゴマーク

「かくは」のマーク

「かくは宮川デパート」の創業は1923年(大正12年)だそうです。

創業当時は「宮川呉服店」として開店され、後に正式にデパートとして営業された「かくは宮川デパート」は、言うなれば弘前の「三越百貨店」と言ってもいい位に格式も高く、客を集め、地域の人々に愛されていました。

ちなみに私を含め津軽では、中の「く」を濁って「かは」と発音していましたけど。津軽や東北ではありがちな濁音化ですね。

「かくは」については、他にも書きたいことがありますので、いつか改めて。今回は包装紙のことを。

「かくは」の包装紙についての考察

「三越百貨店」のサイトによると、あの有名な包装紙「華ひらく」は猪熊弦一郎氏という洋画家の方がデザインされて、筆記体のmitsukoshiの文字を書いたのは、当時三越百貨店の宣伝部で働いていた、あの「やなせたかし」さんなのだそうです。

朝ドラ「あんぱん」の中で、【三星百貨店】の新しい包装紙について、その実話に基づいたエピソードがありました。

洋画家の猪俣先生のデザインに、北村匠海さんが演じる嵩が、筆記体でmitsuboshiと書くシーンです。

それを踏まえて、いまどきするか?って考察ですが…。

かくはロゴ

かくは宮川のローマ字筆記体

「かくは」の包装紙が赤一色なのも、筆記体でKakuha Miyakawaと書かれているのも、「三越」のイメージにあやかりつつ、「三越」に対するオマージュがあふれ出たデザインだったかと思います。ま、パクリっぽいと言えないこともないですけども…。

デザインのモチーフ

「三越百貨店」の包装紙は、洋画家の猪熊氏が海岸で拾った二つの石のフォルムから着想を得たと言います。

一方、「かくは」は弘前を象徴する「りんご」「桜の花びら」と「雪の結晶」をあしらっています。

りんごや花びらの外側に向けてグラデーションをかけて、ほんわかと柔らかい感じにしたかったのだろうと思います。

城下町・弘前にある、創建当時は「東北初の鉄筋コンクリート建築」だった百貨店。

包装紙も、日本を代表する老舗の百貨店に負けじとデザインされたのだろうなぁと想像します。このデザインがやがて古くさく感じられた時代があったかもしれませんが、いまなら一周回って「昭和レトロ」っぽくて、可愛い包装紙だな~と思います。

当時、このハイカラな包装紙に心を躍らせたであろう津軽の人々が偲ばれます。

ヤフオクで発見!

ちなみにネットで「かくは宮川 包装紙」と検索してみたら、ヤフオクで包装紙の全形?が出て来ました。私が持っている物より古い時代のデザインかな?と思いますが、120円!で落札されていました。売る人も、買う人もいるなんて驚きました。

そして昭和レトロな包装紙の需要が他にも沢山あるということを、検索きっかけで初めて知りました。紙ものコレクターの世界も深そうです。

この世は知らないことばかりです。

ガチョウの「ガーコ」のこと

ガーコのイメージイラスト

ガーコのイメージ画

 

そもそもの出会い

今は昔、私が小学校に入学した1971年(昭和46年)の話です。

ある日、父がどこからか一羽のガチョウをもらって来ました。幼鳥ではなく、成鳥でした。

鳴き声がガーガーとやたらうるさかったので、名前は「ガーコ」に即決。
いま思えば、コブが大きいガーコは〈オス〉でした。
多分、オスでもメスでも名前は「ガーコ」になったと思いますけれど…。

父は早速、「ガーコ」のオリを作りました。
りんご箱や農機具を収納するための粗末な小屋(←ワラの土壁)の外壁の一角に、目の荒い金網で囲っただけの、ちんけなオリでした。しかも屋根は無く、完全に雨ざらしでした。

 

我が家に連れて来られたばかりの「ガーコ」は、人が近づくと頭を低くして威嚇してきました。

威嚇するガーコの画像

威嚇するガーコ

声はガーガーうるさいし、やたらメンチ切ってくるガチョウ。最初は怖いばかりでした。ま、ガチョウからしたら、人間こそが怖くてイヤだったかもしれませんが。

小学校入学当時

私は就学前は、近所の保育園に通っていました。

りんご畑の繁忙期は、あたりが真っ暗になるまで、私と四つ下の弟の二人のみが保育園に居残って、母の迎えを待ったこともありました。


ところが小学校に入ってからは、私は午後の早い時間には下校していました。親は家から離れた畑にいて、私はポツンと、一人さびしく留守番になりました。

それまでとは環境が大きく変わりました。
学校に慣れて、放課後に友だちと一緒に遊ぶようになるまで、ちょっと時間がかかった記憶があります。

だから、メンチ切って威嚇してくるような鳥でも、家に「ガーコ」がいるのが嬉しかったのです。

朝起きるとすぐ、「ガーコ」の様子を見に行って話しかけたり、その辺に生えてる草をあげてみたりして、すっかり私のおともだちになりました。

「ガーコ」も私に慣れて来たのか、前のように威嚇しなくなっていました。

衝撃の展開

そして、そんなある日のこと。
突然、その「事件」は起きました。
             
「ただいま~」と元気よく帰って来た私に、珍しく早い時間に家に居て、玄関まで出迎えて来た母が、沈痛な面持ちで言いました。

「ガーコ、死んでしまったよ」と。

「えっ!なんで~?」と涙がブワッと出てきました。

母によると「トラバサミ」(当時は使用できた)というワナを踏んでしまい、痛がって可哀相だったから、楽にしてやったとのことでした。
居間に入ってみると、伯父さんや父の友達たちが数人来ていて、ワイワイと盛り上がっていました。

私はガーコの死が悲しくて、すぐに自分の部屋に飛び込みました。そして当時買ってもらったばかりの二段ベッドの上の段で、ふとんにもぐっておんおん泣いていました。

少し時間が経ってから、そっと母が部屋に入って来て言いました。

 

「ガーコ、食べる?」

 

え? 信じられない衝撃の言葉でした。

「食べないっ!」
収まっていた涙が再びこぼれて来ました。

あの、居間に集まっているオヤジどもは、

ガーコ鍋をさかなに、一杯つけて盛り上がっていたのでした。

怒りが沸いてきましたが、苦情は言えませんでした。


後年、その一件は笑い話になりましたが、母によると「ガーコ」は最初から食べるために飼っていたのだそうです。んもう!
当時、何も知らない私に「ガーコ」の死を告知する役目を押しつけられた母。その時の気持ちはいかばかりだったでしょう?

でも、遠慮がちにでも「ガーコ、食べる?」って聞けるあたり、オヤジどもと大差ないような気もします。安い女優みたいな演技にはすっかり騙されましたけど。笑。

それにしても、ひどい大人たちです。子供のペットを「鍋料理」にするなんて。

伯父のこと

あの時、居間にいて酒を酌み交わしていた伯父には、狩猟の趣味がありました。ハンターの仲間たちと山に行って、ウサギやカモ、たまにクマなどを仕留めて解体し、食べていました。だから「ガーコ」の件も伯父が一枚噛んでいたのかもしれません。オリの中にトラバサミなんて最初から無かったし…。

この伯父たちの狩ってきた野生動物の調理法は、あきれる程に毎回同じで、獣の臭みを消すために投入した大量のニンニクのにおいが強烈でした。

なかなか噛み切れない、骨付き&少し毛も残っていたウサギ肉。煮込んで変な色になったクマ肉。ヤスコも食べでみろ、と言われてチビッと味見はしましたが、私には美味しいとは思えませんでした。

ただ、そうやっておすそ分けされた中では、「キジ」は旨味が別格でした。臭みは少なく、あっさりした味付けの方が、その旨さがわかりました。いわゆる、ジビエの醍醐味って、これなんだろうなといった味でした。

キジは明らかに、普段食べなれた鶏肉とは一線を画すものがありました。「ガーコ」の件では泣き腫らした私にも、忘れ難い味でした。

 

これが、ガチョウの「ガーコ」の思い出です。

 

…って、おいおい!いつの間にか主旨、変わってるし!

「ガーコ」の話を「キジ」の美味しさの話に収斂させていくとは…。

すまなんだ、ガーコ。
私もすっかり「ひどい大人」の側になってしまったようだよ。

黒バックのガーコのイラスト

ガーコの遺影

 

進駐軍にもらった「漬物の缶詰」とは?

ギブ・ミー・チョコレート

7月2日のNHK朝ドラ「あんぱん」の冒頭。
一列に並んだ子供たちが、アメリカ進駐軍の兵隊からチョコレートをもらう場面がありました。いわゆる「ギブ・ミー・チョコレート」のシーン。

戦後の日本を舞台にしたドラマによくある、子供らの光景です。

テレビや映画でそんなシーンを見るたびに、ついつい思い出してしまう、今は亡き父から聞いた戦後のエピソードがあります。

父が見たアメリカ兵の印象

1937年(昭和12年)生まれだった父も、子供の頃にアメリカ兵からチョコレートをもらったことがあったそうです。

終戦の時、父は8歳。

父が接したアメリカの兵隊さんは、とても公平だったそうです。

チョコレートをもらうために並んでいる子供が、その背中に弟や妹など、より小さな子供をおんぶしていた場合、おんぶされている子供も「一人」としてカウントしたのだそうです。

赤ちゃんだから半分ね、とかではなく、みんな一律に同じチョコレートを一枚渡してくれたというのです。「あれはすごいと思った」と、父は言ってました。

 

アメリカ兵からもらった「漬物」

かんづめの画像

なぞの缶詰(イメージです)

そして幼き父は、兵隊さんからチョコレートばかりではなく、缶詰をもらったことがあったそうです。…って、どんだけ兵隊さんに溶け込んだことやら。

その缶詰を開けて、食べてみて、

「アメリカの漬物ぁ、なんぼ ば!」

※津軽弁を共通語に翻訳:

アメリカの漬物は、なんてうまいんだ!

と思ったそうです。

 

アメリカの漬物!?

ピクルスの缶詰でも、もらったのかな?と、私は思いました。

 

 

実はそれ、今にして思えば

 

 

 

パイナップル缶の

アメリカの漬物

パイナップルの缶詰 だったそうです。

 

その当時の津軽の貧しい農村では、パイナップルという果物があることを誰も知らなかったので、幼かった父は「アメリカの漬物」と思ったらしいです。漬物って!笑。

 

もうひとつ、おまけのエピソード。

戦時中に発行された紙幣があったそうで、敗戦とともにそれは価値を失い、ただの紙くずになったそうです。

「その札コ、みんなでばらまいて遊んだもんだぁ~」と父は言っていました。

 

この記事を書くのに、その紙幣のことをネットで調べてみました。それ「軍票」かな?と思います、たぶん。

本当に、当時の政府だか軍部だか、中途半端なことやってたものです。その場しのぎで場当たり的な発想。80年もたった今の政府もあんまり変わってない感じがしますが…。

あの当時、こんなにうまい「漬物」を作れる国と戦争するのは、やっぱ無謀だったかもしれませんね。

 「リスボンスバン」のこと

リスボンス盤画像

これが問題の【リスボンスバン】

この写真は 【リスボンスバン】を復元したものです。
今は昔、私が中2の時、つまり46年前(笑)の昭和54年、数学の時間に使用していました。
数学のE先生のご指導の下、各自一つ作るように言われたのです。

その謎の物体の命名者はもちろんE先生。

 

先生の意図をくみながら、正しく表記すると
【レスポンス盤】あるいは

【レスポンス板】
になるかと思います。
英語に訳せば【response disk】とでも申せましょう。

E先生のこと

E先生は、磯野波平を思わせる風貌で、昔のモノクロ映画に出て来るような雰囲気の人でした。

飄々とした所もあり、そこはかとなくペーソス漂う好々爺といった感じの、温厚なおじいちゃん先生でした。(※注:褒めてますから)

ただし、津軽弁のなまりがかなりキツく、多分、大正末期か昭和初期生まれの、定年間近の先生だったかと思います。それで【レスポンス】が【リスボンス】になったのでは?と推測します。今となれば真実はわかりませんが。

【リスボンスバン】の作り方

画用紙画像

今回〈復元〉に使った色画用紙

先生が生徒に作らせた【リスボンスバン】は
①画用紙で直径12㎝程の正円を三枚切る。
②半分に折った三枚を垂直に立ち上げ、半円同士になるようにそれぞれ糊で貼り合わせる。

立ち上げた画像

半分に折って90°立ち上げる

 

③パタパタと開いてできた三つの円の盤面を、それぞれ赤・青・黄と色鉛筆で三色に塗り分ける、というものでした。(ただし、今回の復元写真は色画用紙を使用しました)

数学の授業を一時間つぶして、コンパスとハサミ、糊と色鉛筆を使っての工作の時間となりました。

【リスボンスバン】の意義

何のために、E先生はその【リスボンスバン】をみんなに作らせたのか?
それはまさに生徒のレスポンス=反応を知るためでした。

完全に理解できた人は机の上で「青の面」を先生に向ける
自信ないかも…の人は「黄の面」を先生に向ける
全然わかりません!の人は「赤の面」を先生に向ける

そう、理解度の指標にするためのディスクだったのです。

赤の盤面画像

リスボンス盤/わからない時のアピール色

令和の今なら、個々の学習の習熟度を知るために、一人一台のタブレット端末を持たせて一括で管理できているかもしれません。
でも当時は、昭和54年。弘前市立第■中学校の二学年の何クラスかでは、E先生が工夫を凝らし知恵を使って、生徒らの習熟度を測ろうと試みていたのでした。

アナログな道具ではありましたが、実は先進的な取り組みでした。当時、そんな試みをする先生は他にいませんでした。思えば、いい先生だったなぁ。

E先生の得意技

先生はガミガミとは怒らない人でしたが、忘れ物や宿題をやってこなかったりなど、何か生徒を何か諫めるような時は「ペニシリン」という技を繰り出しました。
「ペニシリン!」と言いながら、二の腕をキュッとつねるという、今の時代なら完全にアウトっぽいですが、一つのコミュニケーションのような技でした。


当時は生徒の性別に関わらず、「ビンタ」をする体罰教師も普通にいた位ですから、「ペニシリン」なんて可愛いもの。やられた生徒もくすぐったくて笑っていましたし。
私も一度、ペニシリンやられたような…記憶があります。理由は忘れましたが、想像していたよりは痛くはなかったと思います。

E先生のキラーフレーズ

E先生は小柄で、声をあまり張らない、怒らない先生でしたので、授業中の教室は生徒の雑談でガヤガヤしていました。先生が一生懸命授業に取り組んでも、生徒の側は集中力を欠いていて、何となく数学の授業時間はいつもガヤガヤ。

そんな時、E先生は黒板を指し示し、津軽弁で「こぢ見れ」って言ってました。
共通語で訳すと「こっち見て」って感じです。
命令口調ではなく、お願い口調で尻上がりに「こぢ見れ」と言っていました。
この時の「ぢ」は、「ぢ」と「ず」の中間の発音になります。※急に、津軽弁講座。

先生が「こぢ見れ、こぢ見れ」って言わないといけない程、ほとんどの生徒は真剣に聞いてはいなかったと思います。
そして、ペーソスが漂っている波平さんそっくりな先生が「こぢ見れ」って言うからこそ、独特なおかしさがにじみ出てしまい、みんなクスクス笑っていました。

せっかく作った【リスボンスバン】の効果は不明のまま、先生は異動だったのか退職だったのか、新年度は学校から居なくなりました。
卒業アルバムに先生のお写真が残っていないのが、今でも残念です。

新たな数学教師登場!

新学期、代わりに来たのは、ごつい黒縁メガネの底に鋭い眼光の中年男性教師。大柄で声もよく通る、威圧感のかたまりみたいな先生でした。私にはそう見えました。
あれだけ言われても「こぢ」を見なかった生徒に、バチが当たったのかもしれません。E先生と正反対の先生をあえて投入したのかと思う位、何もかもが違いました。

それから数学の授業の時は、先生の大きな声が響き渡り、教室はシーンと静まり返っていました。

友人に確認して驚いたこと

私の中学校は、一学年が平均15クラスもあるような超マンモス校でした。一学年約600人。全校生徒が集まると約1800人でした。
職員室も学年ごとに分かれていて三つあり、教科の先生も学年に複数人いました。

この【リスボンスバン】のことを書くために先日、中2の時からの友人に、E先生って何組から何組まで教えていたっけ?とラインで尋ねてみました。

聞いてビックリ、彼女にはE先生の記憶は全く無いそうでした。
中学・高校の記憶はほとんど覚えていないのだそうです。

ちょっと驚いてしまいましたが、実は私の方が異常なのだな、と気づきました。笑。

E先生と【リスボンスバン】のこと、未だに覚えているの、この世で私一人なのかな?
ま、わざわざモノを復元する人は他にいないだろうな。

クラス会とか同窓会とか、誘われても行かないでいるうちに、とうとうお声もかからないようになってしまいましたが、このマニアックな思い出だけは誰かと語り合いたかったです。

 

ちなみに「レスポンス盤」でネット検索したら、出ました!ひょうたんから駒!

いわく、特許出願の拒絶理由通知に対する応答を、効率的に作成するためのソフトウェアを示すことがあります…云々だそうです。

んー、それとは完全に別物。全く無関係ですからね、念のため。

偏愛スリッパのこと

 

しまむらで買ったメンフクロウのスリッパ

「しまむら」で買ったスリッパ

BARN OWL & CUT APPLE

これ、2023年の秋に「しまむら」で購入したスリッパです。

半分にカットされたりんごの断面がフクロウに似ているというエスプリが効いていて、なんて可愛いアップリケ!と思い、ひとめぼれ。即買いしました。

フクロウの上部に刺繍されているBARN OWL。
OWLはフクロウだけど、BARNって何?と思って調べたら「納屋」でした。へぇ~。
次に、BARN OWLで調べたら「メンフクロウ」と出ました。ほぉ~。

左スリッパの画像

左:メンフクロウのアップ

右スリッパの画像

右:りんごの断面のアップ

スリッパの底は、スエード調でなみなみしていて、これも気に入りました。

スリッパの底の画像

スリッパの底も可愛い!

スリッパ本体のサックスブルーの色合いと、内側のネイビーとの組み合わせも気に入って、ガンガン履いてワシワシ歩いていました。

そのうちに表面に毛玉ができたり、底のスエード調の人工皮革が痛んで剥げて来たのでもう1足買足しました。

最初の1足目は捨てました。

このスリッパがあまりにも気に入って、購入当時Googleで検索してみたら、Xでつぶやいている方をお一人発見しました。リポストや、引用も少しありまして、確実に「仲間」がいる!と思いました。

 

弘前の元りんご農家の娘としては、フクロウを「益鳥」と認識していました。りんごの木の根元をかじるネズミを捕まえてくれる、と聞いていたので。

りんごの木が朽ちてできた小さなほら穴に子供のフクロウがいたのを見たこともあります。さすがにメンフクロウではなかったと思いますが、白くてモフモフの子フクロウが二羽いました。

追加購入とその後

このスリッパ、毛玉ができやすいし、真新しい感じでいられる時間が短い気がする…。予備を買っておかなきゃいかん!と思い、改めて「しまむら」へ。

可愛いから、もう売ってないかも…と心配しましたが、在庫はありました。
住んでる界隈の「しまむら」で、このスリッパのブームが起きていたのは自分だけだったようです。都合4足定価で買って、いまなお未使用のストックが2足あります。

現在使っている2足目のスリッパは、何回も洗っているからか、やはり毛玉もできて、アップリケのフェルトもボロボロです。甲の形もボコボコしています。でも、もったいなくて捨てられませんし、新しいのは履けません。

このデザイン、どなたの作なんでしょうか?

もはや知る由もありませんけどね。

スリッパの画像

ストックしているスリッパたち

エッホエッホ

「メンフクロウ」といえば#エッホエッホで、すっかりおなじみになりましたね。
このエッホミーム?というヤツを知ったのがこの3月下旬でした。

子供部屋だった小部屋を、やっと自分の部屋にできる!と思って、重い勉強机を運ぶのを帰省中の息子に手伝ってもらって、私が「えっほ、えっほ」と掛け声をあげたら、

「いま、ネットミームで『エッホエッホ』って流行ってるよ」と言われました。

…んなこと言われても、還暦の母の私には最初は何のことやらさっぱりわかりませんでした。


この「メンフクロウ」のスリッパ愛のことをブログに書きたいと思いながら、直前の「自作・羽子板」のことを更新し終わるまで我慢しなくては、と思っていました。

3月4月の娘の大学進学と引っ越し、その後の家族の入院、私のパートの仕事のメニュー刷新と重なって、アワアワしているうちに時は流れ、「羽子板」の記事を更新できぬまま、6月となりました。涙。

あっという間に、エッホエッホのブームも過ぎ去った…ようです。早すぎます!

流行りに完全に乗り遅れたけど、このイラストをデザインしたどなた様かに対して、やっと思いを伝える時が来ました。

#エッホエッホ このデザインを偏愛していること伝えなきゃ
#エッホエッホ しまむらに再販希望と伝えなきゃ

ま、再販は無理でしょうね。在庫ありましたら、購入希望します!

たかがスリッパ、されどスリッパ。

このスリッパにこんなに愛着が沸くとは、購入当時は想像できませんでした。あの頃、何軒も「しまパト」して、もっとストックを増やしておけばよかったな、と思います。

やること全てが遅い、私でした。

25年前に作ってみた羽子板#4/松木屋・京都物産展編

紅白の鱗文生地と般若心経柄の金襴生地

押絵の帯まわり

帯まわりのクローズアップ

京鹿子娘道成寺の清姫に扮した押絵の私(←但しかなり美化!)が着ている、「鱗文」の正絹のハギレ。

これを見つけたのは、かつて青森市新町にあったデパートでした。

三角形を連ねたこの鱗文。

能や歌舞伎では「鬼女」や「蛇の化身」の衣裳に用いられる柄でもあります。

これが蛇や竜の鱗に見立てた文様であることは、資料として持っていた『日本・中国の文様辞典』(視覚デザイン研究所 編)で、知識としては何となく知っていました。(←この本、面白いですよ)

実際にお店でこの柄の生地を発見して「ちょうどいいの、見つけた!」と興奮したのを覚えています。

青森「松木屋デパート」物産展のこと

今は昔、青森市新町にあった老舗の百貨店「松木屋デパート」。
西武百貨店と業務提携していた松木屋デパートの催事は、意外にマニアック、かつオタク心をくすぐるようなラインナップでした。

中国物産展、京都物産展、新古書・レコードバーゲンなどが毎年恒例で催され、
「こりゃ、私しか買わないでしょう」な新古書などを、発掘&調達するのにも役に立ちました。

特にハマった「京都物産展」では、店員さんの生の京言葉を聞ける楽しみもありました。
ごった返す人ごみの中をかき分けて行く男性店員さんが「ごめんやっしゃ、ごめんやっしゃ」と優しく声掛けして行くのを見て、「おお!京都では、そんな風に言うのか!」と一人で内心感激したり。

毎年、同じ時期に開催される各物産展の開催に、季節の移ろいを感じたりしてました。

私にとっての松木屋の催事は、青森に居ながらにして珍しい素材、初めて見る道具、マニアックな本など、製作活動のヒントにつながる「宝探し」の現場でもありました。 

勤めていた会社の近くに松木屋があったので、開催の時期にはランチも仕事も(笑)そこそこに、いそいそと催事会場まで出かけたものです。買わずに見るだけでも楽しめました。

今から考えると、何とも牧歌的。デパート集客作戦の思うツボ。いいカモ?

私って完全におめでたい人でした。

京都のハギレ屋さんとの出会い

この鱗文の生地は、この物産展に出店していた、西陣織や着物地のハギレを扱っていた「X」(仮名)というお店で購入しました。そして、同じお店に般若心経の文字が織り込まれた金襴の生地も見つけました。

結局、この経文の生地が自作羽子板のデザインにおけるコンセプトの「決定打」となりました。

メガネ部分や、鐘の部分の絹のちりめん生地、紗綾形(さやがた)の地紋のある黄色い絹の生地も同じ店で買ったかと思います。

自分なりの拡大解釈・娘道成寺

鐘に隠れた坊さんを、怒り狂って蛇と化して焼き殺す場面の「清姫」。彼女の一番ヤバい状態に扮した自分の押絵。
この凄惨なシーンを選んで、あえて「年賀状」に使うのはいかがなものか?と思って躊躇していましたが、もはや他の絵柄では作る気がしませんでした。

その自分の中だけの葛藤を、一挙に解決してくれそうなのが「般若心経」なのでした。
清姫の帯にお経を登場させることにより、安珍にも清姫にも供養になって、凄惨さも「相殺」され、年賀状にしてもいいじゃ~ん!と思いました。安易と言えば安易。

だから、伝統的な歌舞伎の衣裳などとは全く違うんですけれども…。

今なら、そんな自分だけの解釈やこだわりなんて、誰にも伝わらないから!と自分にツッコミたくなりますが。若気の至り…って、そんなに若くもなかったですが。

心ならずも(笑)、なが~い独身時代を過ごした私。

とうとう三回目の年女を迎える年齢の、節目となる「巳年の年賀状」でした。

ちなみにこの頃、結果的に後に伴侶となる人とは既に出会っていましたけど、結婚するかどうかは、まだわからない状態でした。

色々とこじらせて、気づけば数え年・女36歳。立体作品年賀状シリーズは「清姫」チョイス一択でした。笑。

京都のハギレ屋さん「X」のこと

物産展のお店の方は、かなりご高齢とおぼしき、小柄で上品なおばあちゃまでした。
そのお店から無秩序とも思えるハギレをたくさん買った私。

お支払いの時にそのお店のおばあちゃまを相手に、この鱗文に出会えた嬉しさ、この無秩序的な生地チョイスの理由、これから自分が作ろうとしている羽子板のデザインの構想を「津軽弁」で熱く語りました。ホント、暑苦しい客です。

お支払いを済ませてその売場を後にしたところ、そのおばあちゃまが必死な面持ちで私を追いかけて来ました。そして、ご自分の名刺を差し出して「羽子板の年賀所、是非私にも送って下さい」とおっしゃっいました。嬉しい驚きでした。もちろん、喜んで投函しました。

そして2002年、私は秋田県に嫁ぎました。職場は青森市内でしたので、遅蒔きながら、憧れの?寿退社でした。パチパチ。

結婚した次の年の2003年に、とうとう「松木屋」が閉店してしまいました。

そして、その次の年だったかと思います。

秋田イオンモールに二つ目の核店舗として入っていた青森県の老舗百貨店「中三秋田店」で、「松木屋・京都物産展」とほぼ同じ出店企業の「京都物産展」が開催されました。

その頃、京都のハギレ屋さん「X」から、実家に私宛てのお葉書が届きました。秋田イオンモールの中三の「京都物産展」に出店します、というお知らせのはがきでした。

その当時の私は、慣れない土地で慣れない育児の真っ最中。

しかも創作そのものをしていられる環境でもなくなって、新たな生地を買う金銭的な余裕もなく、残念ながら行きませんでした。昔は買わずに見るだけでも楽しめたのに…。

 

ちょうどその頃、私と同じ弘前市出身で元仕事関係者でもあり、私と同じ頃に結婚し、結婚後に偶然にも秋田市在住となった友達がおりました。

当時、秋田イオンに京都展を見に行った彼女が言うには、閉店した「松木屋」の企画を、「中三」が横から丸ごといただいちゃったのかな?という内容だったようです。

だったらなおさら、万障繰り合わせても行けばよかったと、私は思いました。

その後「中三」は2008年に秋田イオンモールから撤退し、弘前にあった店舗も2024年8月に突然閉店してしまいました。

完全に、青森ローカルの話ですが、松木屋閉店も中三閉店も、中心商店街に活気があった往事を知っている者には、淋しい限りです。イトーヨーカドー弘前店も2024年9月に閉店しちゃっいましたし。

ハギレ屋さんにお電話

さて今回、ブログで羽子板紹介の記事を書くのに当たって、お店はまだ営業してるだろうか?もし営業していたら、お店のお名前を出してもいいかな?と思い、手元に残っていた、あの時いただいた名刺にあった京都の番号に電話してみました。

すると、お年を召した男性が出ました。彼は名刺をいただいたおばあちゃまの息子さんでした。松木屋の京都物産展のお話をしたら、懐かしそうにしていらっしゃいました。

名刺をいただいた社長である「おばあちゃま」は何年も前に亡くなられたそうでした。

私がブログのことを切り出したら、お店もあと何年やれるかもわからないし「そういうの、いいですから」と断られてしまいました。それで店名を「X」としました。

 

この羽子板を製作するのに使用した生地には、松木屋デパート物産展や、文字通り「一期一会」となってしまった、京都のハギレ屋さんとの思い出が詰まっています。

羽子板、その他の部分

羽子板は『伝統の押絵をつくる』に書いてあったように作りました。

顔のパーツは台紙に中綿を入れて羽二重でくるみ、胡粉を塗って鉛筆で下書き。顔彩を使って筆で顔を描きました。さすがに1回目は失敗しました。

まげ部分も人形用のスガ糸を使い、本を参考にアイロンと糊を使い、櫛で整えながら作りました。本に載っていなかった部品は、自分で考えて作りました。メガネ、花かんざしなどです。

桜の花かんざしはホームセンターでアルミの薄い板を買ってきて、イラストレータで作った桜の型紙を使って何枚もハサミで切り、真珠のビーズで留めて、それらしく作りました。花弁の一部に切り込みを入れ、少し重ねてすり鉢状にしました。

花かんざしの画像

アルミ板を切って作った花かんざし

ビラかんざし画像

アルミ板を切って作ったビラかんざしと金糸で刺繍した鐘


ビラかんざしも同じアルミ板と針金で、写真を参考にして作りました。吊り鐘の線は金糸を使ってバックステッチで刺繍しました。

そして、本に書いてあるように押絵のパーツを組み立て、端っこを真鍮の釘でうちつけ、最後に着物に首を差し込んで完成させました。

釘でとめた部分のアップ

外形より5ミリ内側の要所を釘で止める

今の自分の目で見ると、鐘を吊っている綱は、歌舞伎のように紅白にした方がよかったかも…などといろいろツッコミたくなりますが、もう過去のことなのでどうしようもないですね。

ちなみに板の素材「青森ひば」のおかげか、ビニール袋に入れて無造作に保管していたのに、四半世紀たっても布地に虫食いはありません。

今にして思えば、板を発注するよりも先に、これらの生地との出会いがあったような気がしないでもありません。どっちが先だったか、あまりに昔のこと過ぎて忘れてしまいました。ま、もうどっちでもいっか。

長くなりましたが、羽子板のお話はこれにて。

25年前に作ってみた羽子板#3/板・調達編

羽子板の裏側

恥ずかしながら、裏側から見た羽子板(彩色なし)

 

羽子板の板を「発注」するまで。

前回紹介した本、マコー社の『伝統の押絵をつくる』には、羽子板作製の材料として【2尺羽子板】を使うことは表記されていたものの、羽子板の入手方法までは掲載されていませんでした。

今の時代は、ネット検索してみると、手芸用の小さな羽子板などと共に、より専門的な取り扱い店も出て来ます。

この記事を書くために、検索を重ねた末にようやくたどり着いた名古屋の【株式会社人形堂】という会社が、私が望むような大き目のサイズの羽子板材料を専門に取り扱っているようでした。

楽天市場での「人形堂」のサイトには、5号(縦15.2㎝)という小さいサイズから、かなり大きな25号(縦75.5㎝)というサイズまで、多様に取り揃えられています。

今更ながらですが、2000年当時の私が探していた2尺サイズは、この会社のラインナップによると、20号(縦60.8㎝)の物と思われるサイズでした。そして羽子板の木材が「桐」だということも、このたび初めて知りました。

羽子板の横画像

横から見た私の羽子板(厚さ15mm)

20世紀末の私のネット環境。

私が自作の羽子板を作った2000年(平成12年)当時、私が会社や自宅で使っていたブラウザは、主に懐かしのネスケ(ネットスケープ)かヤフーでした。その頃の私は、ネット通販にも慣れていませんでしたし、そもそも検索にも慣れていませんでした。

その結果、創作材料としての羽子板は探し出せずにいました。

無垢の羽子板が欲しい!

との思いは高まるばかり。でも手立てが無い…。そこでどうしたか?

無い物は発注して、作ってもらおう!という結論に達しました。

欲しい羽子板の図面を自分で描いて、どこかの木工所に頼んでみることに決めました。

原寸大の図面を作る。

当時の私が職場で使っていたPCはMacG4で、アドビ社のイラストレータ8.0を使っていました。本に載っていた羽子板の写真から大体の比率を割り出し、イラストレータで図面を引いて、自分の欲しい大きさの羽子板を原寸大に拡大した図面を作ってみました。

そしてハローページで、割と実家から近い距離に木工所を発見!電話で軽く問い合わせた後、素人図面を持ってお店を訪ねてみました。

今思えば、木工所はプロなのだから、原寸大の図面でなくても大丈夫だった思いますが、持ち手部分のくびれの具合など、本の写真に寄せたかったので原寸大にしました。

製作をお願いする私に「羽子板は作ったことないなぁ~」と、社長さんはちょっと戸惑ったような顔をされた記憶があります。でも、そこはプロ。引き受けていただくことになりました。

当時の私は羽子板が桐材でできていることを知らなかったので、防虫にもなるかな?と、これまた素人考えで、青森県民信頼の木材の「青森ひば」で作ってもらうことにしました。
「青森ひば」はヒノキ科の植物で、防虫性にも優れているので、もし押絵に正絹を使ったとしても虫はつかないはず!と思ったりして…。

念願の羽子板入手!

数日後、手にした「ひば」の羽子板は想像以上にとてもいい感じの仕上がりでした。しかも清々しいいい香り。無垢の羽子板を手にして、創作意欲が掻き立てられました。

当時の請求書と領収書が残っています。(私の名字は付箋で隠していますが)
羽子板は当時のお値段で6000円+当時の消費税が5%で300円。
無垢の羽子板のみに6300円かけました。もう、後戻りできない出費。笑。

請求書と領収書の画像

平成12年当時の請求書と領収書


そして、時は流れて2025年冬。

ブログで自作の羽子板を紹介するに当たって、せっかく残っていたのだから、この請求書と領収書の画像を載せたいと考えました。

ただ、企業名付きの画像をネット上で公開してもいいものか、お店にお伺いを立てる必要がある、と思いました。それでまず、この木工店「木村木品製作所」を改めてネット検索してみました。そして、

まさかあの時の木工店がこんなことに!?

と仰天してしまいました。

私が羽子板を発注したのが2000年の秋。
時は流れて2025年の現在は、当時の社長の息子さんが「四代目」として後を継いでいて、革新的な木工店に進化していたのです!

木村木品製作所。

弘前市の中央部と南津軽郡大鰐町を結ぶ弘南鉄道という私鉄の「千年駅」。そこからそう遠くない場所にある、”普通の町の木工所”だった「木村木品製作所」。

現在は”普通の木工所”なんて言えないようなことになっていました。

この製作所の躍進の舞台は今や日本国内に留まらず、海外からも評価されていて、引き合いもあるらしいのです。失礼ながら当時は、後年そんな発展を遂げる会社になるとは、全く想像もつきませんでした。

 

今回の検索で知ったことを、私のつたない文章で説明するのはおこがましいので、ぜひこちらのサイトをご覧下さい。

■木村木品製作所

www.kimumoku.jp

 

こちらの記事にも「木村木品製作所」の記事が詳しく載っていました。
■キナリノ  vol.106

https://www.kinarino.jp

 

りんごの木を使って、色々な雑貨を作られている現社長の発想と実験的な創作は、元りんご農家の娘だった私としても興味深く、親しみと共に畏敬の念すらも感じます。
手間をかけ磨き上げると、りんごの木ってこんなにピカピカになるんだな~って思いました。意外でもあり、新鮮でもありました。

「往事」はたわわに実をつけても、最後は伐採され燃料となる運命のりんごの木。

伐採されてからも、厳選され手をかけられて、独自のぬくもりが感じられる新たな道具として生まれ変わる――そんなりんごの木もあったのです。

りんごの薪で暖を取っていた我が家。

さて、りんご農家だった私の実家では、伐採して出たりんごの木は薪ストーブで燃やしていました!私が生まれた時からストーブがあるのは居間だけでした。極寒の青森県なのに、我が家には石油ストーブはありませんでした。狭い居間に集まって暖を取るしかなかったのです。

 

いわゆる「りんご台風」(1991年)を契機に、我が家は住んでいたモルタル一部2階建て(しかも塗装なしのグレー地)のボロ家を解体し、土地を売却することになりました。

その後、りんごの倉庫を改装(T‐T)して住み替えましたが、暖房はもちろん一択。薪ストーブは健在でした。

2016年に父親が病死するまで、薪ストーブは使われていました。薪を作る父も、薪自体もなくなったため、薪ストーブでの暮らしは ”The end” となりました。

最後に、念のためお知らせ。

「木村木品製作所」によると、現在は青森ひば材で羽子板を作ると言ってもこの当時のお値段では無理とのことでした。サイズによっては、現在は倍以上のお値段になるみたいです。

実は2000年当時も、青森ひばを使用しての特注なら、このお値段は相当「お勉強」していただいていたのかもしれません。改めて、その節は本当にありがとうございました。

 

長くなりましたが、これが私が羽子板を作るまでの二つ目の出会いでした。

次は、三つ目の出会いとなる、押絵に使った着物や帯の生地との出会いについて。