何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

「りんご君」の色を復元してみました

apple のカラー化再現

ChatGPTにお願いして復元した画像

ChatGPTのスゴさを実感

二日前に投稿した「りんご君」の写真。

令和の時代には、逆にモノクロ写真がエモいかも…ふふ、と思っていました。

でも、ふとした瞬間「待てよ、ChatGPTを使えばカラーで復元できるのでは?」と、やっと気づきました。そのアイデアが浮かぶまで2日かかりました。

この薄ぼんやりなところが「昭和生まれの私の限界」です。

ま、何はともあれ善は急げ?で、やってみた結果がこんな感じです。

冒頭の写真の前にもう一段階ありまして、前後しますが下の写真が最初の画像です。

最初に書いたプロンプト

【1st プロンプト】

りんごの色は黄緑です。スクーターの色は茶色に近い赤色です。履いている靴は薄いピンク色です。ほっぺも薄いピンクです。舌もほっぺと同じ薄いピンクにしてみて下さい。一回試しに色をつけてみて下さい。

【結果】

プロンプトを入力して、5分くらいで色が付きました。スゴ!

全体的に色が濃く出ました。本当は荷台の色も赤い色でしたが、「POST OFFICE」の可読性が悪い所に注目してしまって、荷台の色が赤くないのを見落としました。

ハガキの宛名の文字化けや、郵便番号の枠線も不可解な数字に文字化けしているのがご愛敬です。

最初に出てきた画像

最初に出てきた画像がこちら

次に書いたプロンプト

【2nd プロンプト】

黄緑をもう少し薄くして下さい。あと、ほっぺと口の中のピンクを今の靴の色と同じ位薄ピンクに。靴の色ももっと白っぽいピンクにしてみて下さい。スクーターの色は実物に近いです。でも荷台に書いてあるPOST OFFICEの文字が読める位に薄くしてみて下さい。

【結果】

それが、冒頭の写真です。

 

何という時代になったのだ!と、いまさらながらに思いました。

テレビのドキュメンタリー番組などで、古い時代の白黒写真をCGでカラー化したようなのを見たことがありましたが、それが個人の自宅で、しかも無料でできる時代になったのですね。

たまげました。

また何か実験したら、ブログで報告したいと思います。「六十の手習い」とは、まさにこういうことなのかもしれません。笑。

curiousな還暦女が現場からお伝えしました~。

「グリーンアップル大使」に便乗して

りんご君1

「あっぷる通心」のアイキャッチキャラクター


あのMrs.GREEN APPLEが「グリーンアップルの産地を盛り上げたい」と日本を代表する二つのりんご産地・青森県と長野県と公式にコラボすることになり、「グリーンアップル大使」に就任したそうです。ちなみにキーボードの藤澤さんは長野県出身。

青森県にりんごの苗木が来てから、今年でちょうど150周年。そしてMrs.GREEN APPLEは結成10周年だそうです。

元々りんご作りではライバル同士とも言える両県ではありますが、「グリーンアップルの産地を盛り上げたい」とのミセス側からの申し出に、三者がコラボしたそうです。

全りんご生産量の1割に過ぎない「青りんご」の消費拡大やイメージアップを図るのに、このたびはすごい援軍を得たものだ思います。

ボーカルの大森さんは、実はりんごアレルギーというオチもつきましたが、この周年記念の収穫の秋に、グリーンアップル大使として「青りんご」の魅力とおいしさを全国に発信してくれそうです。

https://mrsgreenapple.com

 

このことをニュースで知った時、そういえば遠い昔、私も青森と長野を「りんご」でつなぐ仕事に少しだけ関わらせてもらったなぁと思い出しました。

そしてその時に作った人形の写真をブログにあげてみようかなと思いました…って、完全にミセスに便乗しているわけですが。てへ。


「アップルレター」のこと

今は昔、青森県の東奥日報社と長野県の信濃毎日新聞社で「あっぷる通心」という共同企画が開催されたことがありました。もう30年以上の前のことです。


りんごの二大産地として有名な「青森」と「長野」の地方新聞社がコラボして、両県の交流をはかるため、りんごにまつわる思い出やエピソード、りんごに関する質問や疑問を読者に募集しました。

 

当時は、今のようにSNSはありませんでした。だから「アップルレター」という名の、リアルな「手紙」や「はがき」での応募を、両県の読者に呼び掛けたのです。古き良き時代の話です。

 

企画の告知と募集の掲載日は、1993年(平成5年)の3月31日。32年前!です。

集まったはがきや手紙は289通。

一か月後の4月30日に、寄せられたメッセージや、質問に対する回答などが見開きで掲載されました。

お便りが採用された方には「テレホンカード」の記念品が進呈されています。

なんとものんびりしていた、いい時代です。

この写真について

東奥日報社の広告局から依頼を受けた私の会社。

この写真のりんごは、その「あっぷる通心」のアイキャッチとして作りました。特に名前はつけなかったので仮に「りんご君」とします。


新聞広告用に作ったので、残念ながら白黒写真しか残っていないのですが、偶然、このりんご君は「グリーンアップル」に作っていました。

 

冒頭の写真の他に「りんご君」をポストマンに見立て、赤いスクーターに乗せたバージョンも撮ったので、りんごまで赤くすると新聞に掲載した時に彩度に差がつかないのでは?と思い、あえて青りんごにしたのです。

りんご君ー3

赤いスクーターに乗った青りんご君

当時、写植を担当していた会社の上司に写真を撮ってもらい、現像・引き伸ばしまでやっていただきました。会社には小さいながらも、現像液の酸っぱいにおいが立ちこめる暗室もありました。今から考えるとガチのアナログ時代です。

 

まだデジカメもない時代でしたし、私自身も携帯電話はおろかPHSすら使っていませんでした。会社がMac導入前でしたので、版下作りはまだ完全に手作業の時代。

今の世だったらスマホでカラー写真もサクッと撮って残しておいたのになぁ。

とは言え、会社の上司に撮影していただいた写真とは別に、自分が持っていたコンパクトカメラで試しに写した写真も残っていました。でもそれも白黒でした。あの当時、モノクロ写真を撮ることにハマっていたんです、私。もう、何やってんの!笑。

apple-4

実家で採れた本物のりんごと写してみた「りんご君」

人形の仕様と作り方など

りんご君の本体部分は直径10㎝位の球形の発泡スチロールです。手芸店で買いました。

①その頂点を本物のりんごさながらにへこむように、いい感じに丸くそぎ取ります。

➁何とな~く本物のりんごに近づくように気長に紙やすりでこそげて形づくりました。

③できた発泡スチロールのりんごにジェッソで地塗りをし、アクリル絵の具で黄みどり色に彩色。りんごのヘタは本物のりんごから取って差し込みました。

④顔のパーツは色画用紙で作り、のり付け。

⑤手脚は、径が太くて柔軟性のあるアルミのワイヤーを使っています。
手の指は同じアルミのワイヤーを使い、短く切ってテープで組み合わせて固定してからジェッソにドボンと浸した記憶があります。

⑥靴は石粉粘土で作り、ジェッソを塗ってからアクリル絵の具で薄ピンクに彩色しました。

⑦座っている切り株の切り口には黄土色を塗り、茶色で年輪を描きました。

⑧発泡スチロールの切り株から伸びている新芽は、実家のりんごの木からもいできた、本当の枝と葉を使いました。

りんご君が持っているはがきの郵便番号の枠が5桁なのが「時代」を感じさせます。
郵便番号が7桁になったのは1998年(平成10年)2月2日からのようです。

その頃の私は

私は「アップルレター」の前年の、1992年(平成4年)の秋から、その会社の制作部に中途採用されました。デザインに関しても素人同然でしたけど、面接を経て何故か採用されました。

先輩デザイナーから版下の作り方を教わり、主に新聞広告を制作する仕事をしていました。新聞の広告はほぼモノクロの世界。だから写真もモノクロで撮っていたのです。

私の仕事は、夕刊に掲載される5段4分の1サイズや2段4分の1サイズの小さい枠の広告が主でした。でも元々が飽きっぽい私には、毎日違う業種の新聞広告を考えることが出来るこの仕事がとても楽しかったのです。

広告のラフを鉛筆で描き、写植の書体やサイズを指定すること。時には筆を使って文字を書いたり、線を描いたりすること。

自分の趣味や、それまでやってきた好きなことがこの仕事には活かされました。

そして自分が作った仕事が印刷され、新聞に掲載されることがなにより面白い経験でした。

 

仕事によっては、徐々にアイキャッチ用の立体作品やペーパークラフト、切り絵なども作らせてもらいました。

まだ時代に余裕があったので、自社にイラストレーターもどきを抱えるような、採算度外視の非効率なことができたのだと思います。

いわゆる「失われた30年」の初期の頃でしたから。


他のスタッフの協力があって、版下作業の合間だけでなく、何日も立体作品をだけを作っていることもありました。それがどれだけラッキーなことだったか、その頃はあんまり深くは考えていませんでした。

作った物についても、きちんと日付と共にファイルしたり、記録などを取っておけばよかったのに…、と今の自分なら思います。

さて、この「りんご君」はいまいずこ。

実は実家から過去作品をまとめて秋田の現在の家に連れて来た時に、これは写真が残っているからもういいかな?と廃棄してしまいました。チ~ン。合掌。

「かくは」の包装紙

包装紙全形

「かくは宮川デパート」の包装紙

これは昔、弘前市にあった「かくは宮川デパート」で使われていた包装紙です。

「かくは」と言えば、ある年代以上の人には懐かしい思い出の詰まったデパートかと思います。

この包装紙は、実家の母が昔使っていた、昭和の古い編み物の本から出て来ました。しおり替わりに使っていたと思われます。

何かメルカリで売れそうな珍しい本はないかしらと探していた時に見つけ「わっ、懐かしい!」と思って、もらって来ました。

断捨離ブームの昨今、物を捨てられない母と娘(←私)が「奇跡」を見つけました。笑。

包装紙から得られた情報

スタンプ画像

包装紙に押されているスタンプ


包装紙には当時の日付のスタンプが押してあって、48.12.15となっています。昭和48年12月15日です。今から52年前、私が小学校3年生の冬です。古ッ!

それにしても何で日付のスタンプが押されていたのか。この引合って何?謎です。

他にセロハンテープの糊の跡が茶色く残っています。

包装紙の折り目が18㎝×10㎝×1㎝位なので、箱に入ったハンカチなんかをもらった時の包装紙だった感じでしょうか。

津軽にとっての「かくは」

かくはロゴマーク

「かくは」のマーク

「かくは宮川デパート」の創業は1923年(大正12年)だそうです。

創業当時は「宮川呉服店」として開店され、後に正式にデパートとして営業された「かくは宮川デパート」は、言うなれば弘前の「三越百貨店」と言ってもいい位に格式も高く、客を集め、地域の人々に愛されていました。

ちなみに私を含め津軽では、中の「く」を濁って「かは」と発音していましたけど。津軽や東北ではありがちな濁音化ですね。

「かくは」については、他にも書きたいことがありますので、いつか改めて。今回は包装紙のことを。

「かくは」の包装紙についての考察

「三越百貨店」のサイトによると、あの有名な包装紙「華ひらく」は猪熊弦一郎氏という洋画家の方がデザインされて、筆記体のmitsukoshiの文字を書いたのは、当時三越百貨店の宣伝部で働いていた、あの「やなせたかし」さんなのだそうです。

朝ドラ「あんぱん」の中で、【三星百貨店】の新しい包装紙について、その実話に基づいたエピソードがありました。

洋画家の猪俣先生のデザインに、北村匠海さんが演じる嵩が、筆記体でmitsuboshiと書くシーンです。

それを踏まえて、いまどきするか?って考察ですが…。

かくはロゴ

かくは宮川のローマ字筆記体

「かくは」の包装紙が赤一色なのも、筆記体でKakuha Miyakawaと書かれているのも、「三越」のイメージにあやかりつつ、「三越」に対するオマージュがあふれ出たデザインだったかと思います。ま、パクリっぽいと言えないこともないですけども…。

デザインのモチーフ

「三越百貨店」の包装紙は、洋画家の猪熊氏が海岸で拾った二つの石のフォルムから着想を得たと言います。

一方、「かくは」は弘前を象徴する「りんご」「桜の花びら」と「雪の結晶」をあしらっています。

りんごや花びらの外側に向けてグラデーションをかけて、ほんわかと柔らかい感じにしたかったのだろうと思います。

城下町・弘前にある、創建当時は「東北初の鉄筋コンクリート建築」だった百貨店。

包装紙も、日本を代表する老舗の百貨店に負けじとデザインされたのだろうなぁと想像します。このデザインがやがて古くさく感じられた時代があったかもしれませんが、いまなら一周回って「昭和レトロ」っぽくて、可愛い包装紙だな~と思います。

当時、このハイカラな包装紙に心を躍らせたであろう津軽の人々が偲ばれます。

ヤフオクで発見!

ちなみにネットで「かくは宮川 包装紙」と検索してみたら、ヤフオクで包装紙の全形?が出て来ました。私が持っている物より古い時代のデザインかな?と思いますが、120円!で落札されていました。売る人も、買う人もいるなんて驚きました。

そして昭和レトロな包装紙の需要が他にも沢山あるということを、検索きっかけで初めて知りました。紙ものコレクターの世界も深そうです。

この世は知らないことばかりです。

ガチョウの「ガーコ」のこと

ガーコのイメージイラスト

ガーコのイメージ画

 

そもそもの出会い

今は昔、私が小学校に入学した1971年(昭和46年)の話です。

ある日、父がどこからか一羽のガチョウをもらって来ました。幼鳥ではなく、成鳥でした。

鳴き声がガーガーとやたらうるさかったので、名前は「ガーコ」に即決。
いま思えば、コブが大きいガーコは〈オス〉でした。
多分、オスでもメスでも名前は「ガーコ」になったと思いますけれど…。

父は早速、「ガーコ」のオリを作りました。
りんご箱や農機具を収納するための粗末な小屋(←ワラの土壁)の外壁の一角に、目の荒い金網で囲っただけの、ちんけなオリでした。しかも屋根は無く、完全に雨ざらしでした。

 

我が家に連れて来られたばかりの「ガーコ」は、人が近づくと頭を低くして威嚇してきました。

威嚇するガーコの画像

威嚇するガーコ

声はガーガーうるさいし、やたらメンチ切ってくるガチョウ。最初は怖いばかりでした。ま、ガチョウからしたら、人間こそが怖くてイヤだったかもしれませんが。

小学校入学当時

私は就学前は、近所の保育園に通っていました。

りんご畑の繁忙期は、あたりが真っ暗になるまで、私と四つ下の弟の二人のみが保育園に居残って、母の迎えを待ったこともありました。


ところが小学校に入ってからは、私は午後の早い時間には下校していました。親は家から離れた畑にいて、私はポツンと、一人さびしく留守番になりました。

それまでとは環境が大きく変わりました。
学校に慣れて、放課後に友だちと一緒に遊ぶようになるまで、ちょっと時間がかかった記憶があります。

だから、メンチ切って威嚇してくるような鳥でも、家に「ガーコ」がいるのが嬉しかったのです。

朝起きるとすぐ、「ガーコ」の様子を見に行って話しかけたり、その辺に生えてる草をあげてみたりして、すっかり私のおともだちになりました。

「ガーコ」も私に慣れて来たのか、前のように威嚇しなくなっていました。

衝撃の展開

そして、そんなある日のこと。
突然、その「事件」は起きました。
             
「ただいま~」と元気よく帰って来た私に、珍しく早い時間に家に居て、玄関まで出迎えて来た母が、沈痛な面持ちで言いました。

「ガーコ、死んでしまったよ」と。

「えっ!なんで~?」と涙がブワッと出てきました。

母によると「トラバサミ」(当時は使用できた)というワナを踏んでしまい、痛がって可哀相だったから、楽にしてやったとのことでした。
居間に入ってみると、伯父さんや父の友達たちが数人来ていて、ワイワイと盛り上がっていました。

私はガーコの死が悲しくて、すぐに自分の部屋に飛び込みました。そして当時買ってもらったばかりの二段ベッドの上の段で、ふとんにもぐっておんおん泣いていました。

少し時間が経ってから、そっと母が部屋に入って来て言いました。

 

「ガーコ、食べる?」

 

え? 信じられない衝撃の言葉でした。

「食べないっ!」
収まっていた涙が再びこぼれて来ました。

あの、居間に集まっているオヤジどもは、

ガーコ鍋をさかなに、一杯つけて盛り上がっていたのでした。

怒りが沸いてきましたが、苦情は言えませんでした。


後年、その一件は笑い話になりましたが、母によると「ガーコ」は最初から食べるために飼っていたのだそうです。んもう!
当時、何も知らない私に「ガーコ」の死を告知する役目を押しつけられた母。その時の気持ちはいかばかりだったでしょう?

でも、遠慮がちにでも「ガーコ、食べる?」って聞けるあたり、オヤジどもと大差ないような気もします。安い女優みたいな演技にはすっかり騙されましたけど。笑。

それにしても、ひどい大人たちです。子供のペットを「鍋料理」にするなんて。

伯父のこと

あの時、居間にいて酒を酌み交わしていた伯父には、狩猟の趣味がありました。ハンターの仲間たちと山に行って、ウサギやカモ、たまにクマなどを仕留めて解体し、食べていました。だから「ガーコ」の件も伯父が一枚噛んでいたのかもしれません。オリの中にトラバサミなんて最初から無かったし…。

この伯父たちの狩ってきた野生動物の調理法は、あきれる程に毎回同じで、獣の臭みを消すために投入した大量のニンニクのにおいが強烈でした。

なかなか噛み切れない、骨付き&少し毛も残っていたウサギ肉。煮込んで変な色になったクマ肉。ヤスコも食べでみろ、と言われてチビッと味見はしましたが、私には美味しいとは思えませんでした。

ただ、そうやっておすそ分けされた中では、「キジ」は旨味が別格でした。臭みは少なく、あっさりした味付けの方が、その旨さがわかりました。いわゆる、ジビエの醍醐味って、これなんだろうなといった味でした。

キジは明らかに、普段食べなれた鶏肉とは一線を画すものがありました。「ガーコ」の件では泣き腫らした私にも、忘れ難い味でした。

 

これが、ガチョウの「ガーコ」の思い出です。

 

…って、おいおい!いつの間にか主旨、変わってるし!

「ガーコ」の話を「キジ」の美味しさの話に収斂させていくとは…。

すまなんだ、ガーコ。
私もすっかり「ひどい大人」の側になってしまったようだよ。

黒バックのガーコのイラスト

ガーコの遺影

 

進駐軍にもらった「漬物の缶詰」とは?

ギブ・ミー・チョコレート

7月2日のNHK朝ドラ「あんぱん」の冒頭。
一列に並んだ子供たちが、アメリカ進駐軍の兵隊からチョコレートをもらう場面がありました。いわゆる「ギブ・ミー・チョコレート」のシーン。

戦後の日本を舞台にしたドラマによくある、子供らの光景です。

テレビや映画でそんなシーンを見るたびに、ついつい思い出してしまう、今は亡き父から聞いた戦後のエピソードがあります。

父が見たアメリカ兵の印象

1937年(昭和12年)生まれだった父も、子供の頃にアメリカ兵からチョコレートをもらったことがあったそうです。

終戦の時、父は8歳。

父が接したアメリカの兵隊さんは、とても公平だったそうです。

チョコレートをもらうために並んでいる子供が、その背中に弟や妹など、より小さな子供をおんぶしていた場合、おんぶされている子供も「一人」としてカウントしたのだそうです。

赤ちゃんだから半分ね、とかではなく、みんな一律に同じチョコレートを一枚渡してくれたというのです。「あれはすごいと思った」と、父は言ってました。

 

アメリカ兵からもらった「漬物」

かんづめの画像

なぞの缶詰(イメージです)

そして幼き父は、兵隊さんからチョコレートばかりではなく、缶詰をもらったことがあったそうです。…って、どんだけ兵隊さんに溶け込んだことやら。

その缶詰を開けて、食べてみて、

「アメリカの漬物ぁ、なんぼ ば!」

※津軽弁を共通語に翻訳:

アメリカの漬物は、なんてうまいんだ!

と思ったそうです。

 

アメリカの漬物!?

ピクルスの缶詰でも、もらったのかな?と、私は思いました。

 

 

実はそれ、今にして思えば

 

 

 

パイナップル缶の

アメリカの漬物

パイナップルの缶詰 だったそうです。

 

その当時の津軽の貧しい農村では、パイナップルという果物があることを誰も知らなかったので、幼かった父は「アメリカの漬物」と思ったらしいです。漬物って!笑。

 

もうひとつ、おまけのエピソード。

戦時中に発行された紙幣があったそうで、敗戦とともにそれは価値を失い、ただの紙くずになったそうです。

「その札コ、みんなでばらまいて遊んだもんだぁ~」と父は言っていました。

 

この記事を書くのに、その紙幣のことをネットで調べてみました。それ「軍票」かな?と思います、たぶん。

本当に、当時の政府だか軍部だか、中途半端なことやってたものです。その場しのぎで場当たり的な発想。80年もたった今の政府もあんまり変わってない感じがしますが…。

あの当時、こんなにうまい「漬物」を作れる国と戦争するのは、やっぱ無謀だったかもしれませんね。

 「リスボンスバン」のこと

リスボンス盤画像

これが問題の【リスボンスバン】

この写真は 【リスボンスバン】を復元したものです。
今は昔、私が中2の時、つまり46年前(笑)の昭和54年、数学の時間に使用していました。
数学のE先生のご指導の下、各自一つ作るように言われたのです。

その謎の物体の命名者はもちろんE先生。

 

先生の意図をくみながら、正しく表記すると
【レスポンス盤】あるいは

【レスポンス板】
になるかと思います。
英語に訳せば【response disk】とでも申せましょう。

E先生のこと

E先生は、磯野波平を思わせる風貌で、昔のモノクロ映画に出て来るような雰囲気の人でした。

飄々とした所もあり、そこはかとなくペーソス漂う好々爺といった感じの、温厚なおじいちゃん先生でした。(※注:褒めてますから)

ただし、津軽弁のなまりがかなりキツく、多分、大正末期か昭和初期生まれの、定年間近の先生だったかと思います。それで【レスポンス】が【リスボンス】になったのでは?と推測します。今となれば真実はわかりませんが。

【リスボンスバン】の作り方

画用紙画像

今回〈復元〉に使った色画用紙

先生が生徒に作らせた【リスボンスバン】は
①画用紙で直径12㎝程の正円を三枚切る。
②半分に折った三枚を垂直に立ち上げ、半円同士になるようにそれぞれ糊で貼り合わせる。

立ち上げた画像

半分に折って90°立ち上げる

 

③パタパタと開いてできた三つの円の盤面を、それぞれ赤・青・黄と色鉛筆で三色に塗り分ける、というものでした。(ただし、今回の復元写真は色画用紙を使用しました)

数学の授業を一時間つぶして、コンパスとハサミ、糊と色鉛筆を使っての工作の時間となりました。

【リスボンスバン】の意義

何のために、E先生はその【リスボンスバン】をみんなに作らせたのか?
それはまさに生徒のレスポンス=反応を知るためでした。

完全に理解できた人は机の上で「青の面」を先生に向ける
自信ないかも…の人は「黄の面」を先生に向ける
全然わかりません!の人は「赤の面」を先生に向ける

そう、理解度の指標にするためのディスクだったのです。

赤の盤面画像

リスボンス盤/わからない時のアピール色

令和の今なら、個々の学習の習熟度を知るために、一人一台のタブレット端末を持たせて一括で管理できているかもしれません。
でも当時は、昭和54年。弘前市立第■中学校の二学年の何クラスかでは、E先生が工夫を凝らし知恵を使って、生徒らの習熟度を測ろうと試みていたのでした。

アナログな道具ではありましたが、実は先進的な取り組みでした。当時、そんな試みをする先生は他にいませんでした。思えば、いい先生だったなぁ。

E先生の得意技

先生はガミガミとは怒らない人でしたが、忘れ物や宿題をやってこなかったりなど、何か生徒を何か諫めるような時は「ペニシリン」という技を繰り出しました。
「ペニシリン!」と言いながら、二の腕をキュッとつねるという、今の時代なら完全にアウトっぽいですが、一つのコミュニケーションのような技でした。


当時は生徒の性別に関わらず、「ビンタ」をする体罰教師も普通にいた位ですから、「ペニシリン」なんて可愛いもの。やられた生徒もくすぐったくて笑っていましたし。
私も一度、ペニシリンやられたような…記憶があります。理由は忘れましたが、想像していたよりは痛くはなかったと思います。

E先生のキラーフレーズ

E先生は小柄で、声をあまり張らない、怒らない先生でしたので、授業中の教室は生徒の雑談でガヤガヤしていました。先生が一生懸命授業に取り組んでも、生徒の側は集中力を欠いていて、何となく数学の授業時間はいつもガヤガヤ。

そんな時、E先生は黒板を指し示し、津軽弁で「こぢ見れ」って言ってました。
共通語で訳すと「こっち見て」って感じです。
命令口調ではなく、お願い口調で尻上がりに「こぢ見れ」と言っていました。
この時の「ぢ」は、「ぢ」と「ず」の中間の発音になります。※急に、津軽弁講座。

先生が「こぢ見れ、こぢ見れ」って言わないといけない程、ほとんどの生徒は真剣に聞いてはいなかったと思います。
そして、ペーソスが漂っている波平さんそっくりな先生が「こぢ見れ」って言うからこそ、独特なおかしさがにじみ出てしまい、みんなクスクス笑っていました。

せっかく作った【リスボンスバン】の効果は不明のまま、先生は異動だったのか退職だったのか、新年度は学校から居なくなりました。
卒業アルバムに先生のお写真が残っていないのが、今でも残念です。

新たな数学教師登場!

新学期、代わりに来たのは、ごつい黒縁メガネの底に鋭い眼光の中年男性教師。大柄で声もよく通る、威圧感のかたまりみたいな先生でした。私にはそう見えました。
あれだけ言われても「こぢ」を見なかった生徒に、バチが当たったのかもしれません。E先生と正反対の先生をあえて投入したのかと思う位、何もかもが違いました。

それから数学の授業の時は、先生の大きな声が響き渡り、教室はシーンと静まり返っていました。

友人に確認して驚いたこと

私の中学校は、一学年が平均15クラスもあるような超マンモス校でした。一学年約600人。全校生徒が集まると約1800人でした。
職員室も学年ごとに分かれていて三つあり、教科の先生も学年に複数人いました。

この【リスボンスバン】のことを書くために先日、中2の時からの友人に、E先生って何組から何組まで教えていたっけ?とラインで尋ねてみました。

聞いてビックリ、彼女にはE先生の記憶は全く無いそうでした。
中学・高校の記憶はほとんど覚えていないのだそうです。

ちょっと驚いてしまいましたが、実は私の方が異常なのだな、と気づきました。笑。

E先生と【リスボンスバン】のこと、未だに覚えているの、この世で私一人なのかな?
ま、わざわざモノを復元する人は他にいないだろうな。

クラス会とか同窓会とか、誘われても行かないでいるうちに、とうとうお声もかからないようになってしまいましたが、このマニアックな思い出だけは誰かと語り合いたかったです。

 

ちなみに「レスポンス盤」でネット検索したら、出ました!ひょうたんから駒!

いわく、特許出願の拒絶理由通知に対する応答を、効率的に作成するためのソフトウェアを示すことがあります…云々だそうです。

んー、それとは完全に別物。全く無関係ですからね、念のため。

偏愛スリッパのこと

 

しまむらで買ったメンフクロウのスリッパ

「しまむら」で買ったスリッパ

BARN OWL & CUT APPLE

これ、2023年の秋に「しまむら」で購入したスリッパです。

半分にカットされたりんごの断面がフクロウに似ているというエスプリが効いていて、なんて可愛いアップリケ!と思い、ひとめぼれ。即買いしました。

フクロウの上部に刺繍されているBARN OWL。
OWLはフクロウだけど、BARNって何?と思って調べたら「納屋」でした。へぇ~。
次に、BARN OWLで調べたら「メンフクロウ」と出ました。ほぉ~。

左スリッパの画像

左:メンフクロウのアップ

右スリッパの画像

右:りんごの断面のアップ

スリッパの底は、スエード調でなみなみしていて、これも気に入りました。

スリッパの底の画像

スリッパの底も可愛い!

スリッパ本体のサックスブルーの色合いと、内側のネイビーとの組み合わせも気に入って、ガンガン履いてワシワシ歩いていました。

そのうちに表面に毛玉ができたり、底のスエード調の人工皮革が痛んで剥げて来たのでもう1足買足しました。

最初の1足目は捨てました。

このスリッパがあまりにも気に入って、購入当時Googleで検索してみたら、Xでつぶやいている方をお一人発見しました。リポストや、引用も少しありまして、確実に「仲間」がいる!と思いました。

 

弘前の元りんご農家の娘としては、フクロウを「益鳥」と認識していました。りんごの木の根元をかじるネズミを捕まえてくれる、と聞いていたので。

りんごの木が朽ちてできた小さなほら穴に子供のフクロウがいたのを見たこともあります。さすがにメンフクロウではなかったと思いますが、白くてモフモフの子フクロウが二羽いました。

追加購入とその後

このスリッパ、毛玉ができやすいし、真新しい感じでいられる時間が短い気がする…。予備を買っておかなきゃいかん!と思い、改めて「しまむら」へ。

可愛いから、もう売ってないかも…と心配しましたが、在庫はありました。
住んでる界隈の「しまむら」で、このスリッパのブームが起きていたのは自分だけだったようです。都合4足定価で買って、いまなお未使用のストックが2足あります。

現在使っている2足目のスリッパは、何回も洗っているからか、やはり毛玉もできて、アップリケのフェルトもボロボロです。甲の形もボコボコしています。でも、もったいなくて捨てられませんし、新しいのは履けません。

このデザイン、どなたの作なんでしょうか?

もはや知る由もありませんけどね。

スリッパの画像

ストックしているスリッパたち

エッホエッホ

「メンフクロウ」といえば#エッホエッホで、すっかりおなじみになりましたね。
このエッホミーム?というヤツを知ったのがこの3月下旬でした。

子供部屋だった小部屋を、やっと自分の部屋にできる!と思って、重い勉強机を運ぶのを帰省中の息子に手伝ってもらって、私が「えっほ、えっほ」と掛け声をあげたら、

「いま、ネットミームで『エッホエッホ』って流行ってるよ」と言われました。

…んなこと言われても、還暦の母の私には最初は何のことやらさっぱりわかりませんでした。


この「メンフクロウ」のスリッパ愛のことをブログに書きたいと思いながら、直前の「自作・羽子板」のことを更新し終わるまで我慢しなくては、と思っていました。

3月4月の娘の大学進学と引っ越し、その後の家族の入院、私のパートの仕事のメニュー刷新と重なって、アワアワしているうちに時は流れ、「羽子板」の記事を更新できぬまま、6月となりました。涙。

あっという間に、エッホエッホのブームも過ぎ去った…ようです。早すぎます!

流行りに完全に乗り遅れたけど、このイラストをデザインしたどなた様かに対して、やっと思いを伝える時が来ました。

#エッホエッホ このデザインを偏愛していること伝えなきゃ
#エッホエッホ しまむらに再販希望と伝えなきゃ

ま、再販は無理でしょうね。在庫ありましたら、購入希望します!

たかがスリッパ、されどスリッパ。

このスリッパにこんなに愛着が沸くとは、購入当時は想像できませんでした。あの頃、何軒も「しまパト」して、もっとストックを増やしておけばよかったな、と思います。

やること全てが遅い、私でした。