何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

「FUKUDA塾」1994・二戸の話/その➁

福田繫雄さんを塾長に迎え、開催されたワークショップ「FUKUDA塾」1994。与えられたテーマと材料の説明、実際に私が作った時計を紹介します。

 

テーマ「世界に一つしかない時計の文字盤」

ワークショップの参加者に用意された材料は次の通り。

①タテ30×ヨコ30センチ、厚さ3ミリのアクリル板。透明と半透明の二種類。
②色とりどりのカッティングシート。
③時計のムーブメント(針は白)。

これだけです。
これだけと言っても、色とりどりのカッティングシートを好きなだけ自由に使えるという状況はとてもエキサイティングでした。

アクリル板は透明のを使ってみたかったのですが、まごまごしていたら(笑)透明の板は先に無くなり、私がゲットできたのは半透明の白いアクリル板の方でした。

ちょっとがっかりしつつ、半透明でもできることに挑戦しました。

私が作った四分割時計

さて、私が作った時計はこれです。

四分割時計

私が作った時計(アクリルのスタンドは撮影用です)

福田繁雄さんの「だまし絵」のテイストとモンドリアンの「コンポジション」を意識した色味にしました。使う色数は針の白を入れて5色に。
そして、本物の時計のムーブメントを設置するのは左上の黒の部分にしました。

手順はこちら。

①盤面を四分割。そのうち、左上の黒の中心にムーブメント差し込み用の穴を開けてもらう。
②シートを並べて配色を考えて、黒・黄・青・赤のカッティングシートを貼り付ける。
③白い針の形を本物の針から写し取り、カッティングシートで偽物の針を三つ作る。影になる部分に丸く切ったグレーを重ねる(もっと暗いグレーでもよかったな)。

④それぞれ針の向きを考えて、別の時間に設定。バランスを考えてテキトーに配置する。

単純なデザインだったので、作業は思いがけず早く終わりました。ちょっと物足りなさも感じて、青のところに白いカッティングシートで自分のサインを入れました。

シートでサインを作った方法は、

①太いマジックペンで紙に筆記体でサインを書く。

➁①の紙をカッティングシートの上に貼り付けて、サインの外側をカッターで切り出す。以上。

白いカッティングシートで出来たサインを、ピンセットで青い面の下部に貼りました。

サイン

青い文字盤に貼ったサイン

もしも、最初から透明なアクリル板をゲットできていたら、透明であることを活かすような、全く違うデザインになっていたような気もします。

本意ではない、半透明のアクリル板という「しばり」があって、結果的によかったのかもしれません。

この中途半端な半透明のアクリル板を、カッティングシートで埋め尽くして消しちゃお!と思って、このデザインになったのですから。

優秀なアシスタントさん登場!


時計のムーブメントを設置する場所は、各々のデザインにより、参加者の自由でした。

「和山さん」という若いスタッフが、参加者の希望の場所に電動ドリルで直径5ミリほどの穴を開けてくれました。

福田さんの指示を受けて色々なサポートをしてくれていた和山さん。参加者の希望を聞いて、時計を取り付ける場所に電動ドリルで穴を開けたり、希望の形にアクリル板を切ったりと、寡黙にてきぱきと作業されているのが印象に残りました。

 

今はネットの時代なので、この記事を書く前に「二戸市 和山」で検索してみたらヒットしました~!
和山さんは「おりつめ木工」和山忠吉さんという木工の作家さんで、彼の作品紹介には面白いデザインの楽しい家具が並んでいました。

サイトによると「FUKUDA塾でアシスタントを務め、福田繁雄氏のトリックアート等の作品にユーモアを加えた現在の作品が誕生した」とのこと。

この方があの時、アシスタントをやられていたのです。

その後、あのアシスタントの時のように、こつこつと研鑽されたのでしょう。30年後の現在はすごいことになっていたのだなぁと、感慨もひとしおでした。

さっそく和山さんにメールで連絡して、この記事に登場させる許可を取りました。

興味のある方は、こちらをご覧下さい。

https://chukichi.com

 

福田さんから聞いたお話

私は以前から、福田繁雄さんのトリックアートやポスターが好きでした。

覚えている人がいないような超古い話ですが、久米宏さんがTBSのアナウンサーだった時の「ぴったし カン・カン」(←昭和50年代)で、何度か福田さんの立体作品が、問題として出題されていました。たぶんそれは、実際に街角に設置された福田さんのオブジェの「小型模型」だったと思います。

正面から見た時と90度角度を変えた時に見える形が違う不思議な作品に、当時テレビを見ていた私は、子供なりに驚きを感じて「すごい!」と福田繫雄さんのことを知りました。

そしてその後、私がまだ若者だったころ(笑)に、愛読していた光玄社の雑誌「イラストレーション」のno.31(←1985年発行)で「芸大旋風」という特集がありました。

当時、デザインの公募展の大賞を同時期に数人の芸大生が獲得していて、日比野克彦さん、内藤こづえ(現ひびのこづえ)さん、伊勢克也さん、タナカノリユキさん、藤掛正邦さんらが紹介されていました。

全くの門外漢の私でしたが、ミーハーなものですから、彼らの作品や才能に憧れてもいました。特に日比野克彦さんの段ボールの作品が好きで、作品集も買ったりしていました。(ちなみに日比野さんは1985年10月からNHKの『YOU』の司会をされていました。)

その当時、芸大で彼らの指導に関わっていたのが、福田繁雄さんとのことでした。

「イラストレーション」を読んでいた頃は、後に日比野克彦さんが東京芸術大学の学長になるとは、想像もしませんでしたけどね。時が流れました。

 

福田さんはワークショップの時に、日比野さんのことなど、色々なおしゃべりをして下さいました。ワークショップに参加した私たちは興味深々でうかがったものです。

そういったお話の中で福田さんは、自分が教員として学生さんに向き合う時は、積み重ねたデッサンの紙が、その人の背丈と同じくらいの高さになるような学生さんの作品しか見ない、あるいは見たくない、というような意味のことをおっしゃっていました。

ワークショップに参加しているような一般人に対しては、物腰は穏やかでフレンドリーでしたけれど、先生としては本当に厳しい方なのだなぁと思った記憶があります。

あと、私たち参加者が今後も何かをデッサンするような時には、必ず「実物」をよく観察して描くようにとおっしゃっていたのが、今でも印象に残っています。

次回、記憶に残っている参加者の作品や、当時の緑風荘の印象について書きたいと思います。

「FUKUDA塾」1994・二戸の話/その①

かつて岩手県二戸市「緑風荘」で三年連続開催された、世界的グラフィックデザイナー福田繫雄さんのワークショップ「FUKUDA塾」。1994年と1995年に参加した私が、30年の時を経て書いたレポートです。

FUKUDA塾ロゴマーク

福田繁雄氏デザイン・FUKUDA塾のロゴマーク

94年のTシャツ画像

1994年の第1回開催の時に配付されたTシャツ


いま、ネットで「FUKUDA塾」と検索すると、「福田塾」という学習塾が何件か出て来ます。これから書くのは、その塾とは全くの無関係です、念のため。

FUKUDA塾とは?

約30年前に、その名も【FUKUDA塾】というワークショップが、岩手県の二戸市で開催されました。またもや、今は昔の話で恐縮です。

【FUKUDA塾】は1994年~1996年の夏、お盆が来る前の週の土日を含む日程で、三年連続で開催されました。

会場は「座敷わらしの宿」で有名な二戸市金田一温泉「緑風荘」で、2泊3日の合宿でした。

「緑風荘」は不運にも2009年の10月に火災に見舞われてしまい、後に再建されたようですが、これはそのずっと前の古い建物だった時の話です。

ワークショップのお題

「世界に一つしかない時計の文字盤」を作る、とのお題で開催されたワークショップの講師は、「日本のエッシャー」とも称される、あの世界的グラフィックデザイナーの福田繁雄さん(1932年~2009年)でした。

福田さんのお名前を検索するといろいろな動画が出て来ます。

NHKのアーカイブスに「あの人に会いたい」という番組が残っているのを見つけました。File No.330です。短くまとまっていて、福田さんをご存じない方におすすめです。

https://www2.nhk.or.jp


二戸市は福田さんのお母さんの故郷だそうで、戦時中に二戸市に疎開したご縁もあって、ワークショップが企画されたようでした。 

緑風荘での集合写真

当時の緑風荘の大広間で撮った記念写真


この写真は1994年、第1回目に開催された時に撮影された記念写真です。前列の真ん中が福田繁雄さんです。

福田さんの隣のスーツの方は、当時の二戸市長さんだった…記憶があります。

福田さん以外の、参加者の方のお顔は隠しておきました。この中に私もいます。他に教育委員会の方や、サポートメンバーの方も一緒に写っています。

参加した人々のこと

このワークショップの参加資格は東北6県の出身者・在住者に限られ、総勢30~40人程の人数だったと思います。この辺の細かい記憶は定かではありません。

各県から、教師をされている方がたくさん参加されていた記憶もあります。

夏休み中の学生さんもいましたし、私のような会社員をはじめ、専業主婦の人もいました。老若男女・職業を問わずという感じでした。共通点はものづくりが好き、福田繁雄さんが好き、ということで集った感じです。

時計を作りながら、色々な人とお話しすることができました。

会場となった緑風荘の宿泊料と時計の材料費を含む参加料がいくらだったかは覚えていません。参加を呼び掛けた当時の新聞や、会場で各自に配付された印刷物や簡単な名簿などを残しておけばよかったなぁと、今なら思います。

後年、インターネットという「仕組み」ができて、自分がこの経験をネット上に投稿する未来が来るとは、想像もしなかったものですから、細かい紙類は全部捨ててしまいました。

このワークショップを知ったきっかけ

私の実家では購読していなかった「陸奥新報」か「デーリー東北」に、多分このワークショップの告知と参加者募集の広告が出ていたと記憶しています。

以前から、私が福田繁雄さんのファンであることを知っていた実家の母が、どこからか見つけてきました。グッジョブ!

もしかしたらその新聞は、魚屋さんか八百屋さんの包装用の古新聞だった可能性があります。開催の募集期間と締め切りに間に合ったなんて不思議なものです。運が良かったとしか言えません。

 

ちなみに今年の10月中旬、帰省の折に弘前市立図書館の2階調査室で、94年の「陸奥新報」の縮刷版の6月と7月を調べてみました。でもこのワークショップへの参加を募る広告や記事を見つけることはできませんでした。

だから母が見つけて来たのは「デーリー東北」だったと思います。

さすがに弘前市立図書館には八戸市に本社がある「デーリー東北」縮刷版はありませんでした。

二戸市教育委員会に問い合わせた経緯

さて、この【FUKUDA塾】のことをブログに取り上げてもいいかを確認し、許可を取るために、2024年の1月に二戸市教育委員会にメールで尋ねてみました。

なかなかご返答がもらえず、あきらめかけていたところ、少し遅れて許可のお返事メールが届き、ホッとしました。

「30年も前の当時のFUKUDA塾のことを知る職員も少なく、確認に時間を要した」とのことでした。そりゃそうだよな、30年も前ですもんね~。

その節はお手数おかけしました。

二戸市の教育委員会にメールを出して打診して、実際にこのブログ記事にするまで、2年近くかかってしまいました。書きたいことを書くまでの助走が長すぎました。

手元に残っている資料について

私は1994年と1995年の2回の参加でしたが、いまFUKUDA塾関係で手元に残っているのは、94年に写されたこの記念写真が1枚、自分が作った時計が2つ、参加者に配付された福田さんデザインのTシャツ2枚と、95年のテレホンカード1枚。

あとは、福田さんが当時使用されていた、とても奇抜で素敵なデザインの名刺と、第2回の95年に一緒に撮っていただいた福田さんとの写真です。他に、95年に写したスナップ写真が少々。

福田さんの名刺に驚いた理由

福田さんの名刺を掲載することはできませんが、言葉で説明するとこんな感じです。

透明の薄いプラスチックのシートの両面にそれぞれ白と黒で印刷されています。

日本語で名前と住所が印刷されている面はインクが黒色。裏面はアルファベットで名前と住所が印刷されていてインクは白色。

パッと見は可読性がよくないのですが、白い紙の上に黒い印刷面を上にして置くと裏面の白の印刷が消え、黒い文字が読み取りやすくなります。

ひっくり返して黒い紙の上に白い印刷面を置くと、今度は裏面の黒の印刷が消え、アルファベット文字が読みやすいという、ちょっとした仕掛けのある名刺でした。さすが、福田マジックです!

 

95年のTシャツ画像

1995年の参加者に配付されたTシャツ

95年テレカ画像

95年に配付されたテレホンカード

30年前の心残り?

初回参加の94年の時には、私が持参した一眼レフカメラの電池が不覚にも切れていました。カメラ用の特殊な電池だったせいで現地で調達できず。だから残念ながらスナップ写真は一枚も撮れませんでした。

30年たった今でもそのことが心残りですが(笑)、写真に撮れなかったせいで、却って今でも記憶に残っているような事柄もあります。

今も覚えている参加者や作品のこと、福田さんが語ったこと、また、自分が作った時計のことを、次回取り上げたいと思います。

「煮こごり」をポケットにしまった話

うなぎの画像

うなぎの蒲焼 (ただし本文とは関係ありません)

うなぎ売場で見つけた物

これから話すのは、土用の丑の日の頃に下書きした記事です…。もう秋だけど、ま、いっか。

今年の夏は、土用の丑の日が二回ありました。だからでしょうか…。

行きつけのスーパーに、長い期間特設されたうなぎ売場のショーケースの端に、プラスチックの容器に入った見慣れない長方形の物を見つけました。

「ん?何?」と思ってよく見たら

〈炭火焼き鰻の煮こごり〉

とありました。

「煮こごり」かぁ。

その「煮こごり」がフックとなって、「煮こごり」にまつわる50年程前の記憶が、昨日のことのように鮮やかによみがえってきました。

N先生のこと

N先生はかなりのご高齢で、私が生まれる前から、実家の近所に暮らしていたと思います。先生はご夫婦ともに元教師。

おじいちゃん先生は弘前市内の小学校の元校長だったようです。

おばあちゃん先生は、地域の民生委員をしたり、近隣の町村のおばあちゃん達に料理の指導をしたりと、皆から「N先生、N先生」と呼ばれて親しまれていた方でした。

母から聞いた話によると、このN先生は女学校時代、あの淡谷のり子さんと同窓だったそうです。

ネットで淡谷のり子さんの生年を調べたら1907年、明治40年の生まれでした。てことは、あの「煮こごり事件」当時、N先生は70歳前かな?

いまここで私が書こうとしているのは約50年前の話。

50年前に70歳位の方の話です。いつものように、今は昔、の古い話で恐縮です。

私の母が聞いた話

このN先生は青森県の鯵ヶ沢の出身で、士族の出であることが矜持だったみたいです。色白で上品で、いにしえの「大和撫子」って雰囲気の、きれいなご老人でした。

先生はいつも和服をお召しでした。お洋服を着ているのを見た記憶はないです。

お家の中はお香のような、上質なお線香のような、とてもいい香りが漂っていました。私の実家にはなかった、文化的な「和」の香りでした。

ブログを書くために最近母に取材した話では、N先生方は戦前はご夫婦揃って「樺太」で教鞭をとっていたそうです。そして冬はスキーを履いて通勤していたのだそうです。

えーっ!?

たおやかなおばあ様って雰囲気のN先生とのギャップ。若かりし頃のお姿が全く想像できません。

戦後、樺太から日本に引き揚げてからは、私の実家がある地域の「引き揚げ住宅」というところに住んでいて、この界隈が気に入って、新しくお家を建てたらしいです。

私の、亡くなった父方の祖父が、たまたまN先生の近くにりんご畑を買って、私の両親が結婚した時に小さな安普請の家を建てたみたいです。

私の両親がこの、塗装なし・素材そのままの木造一部二階建て「灰色モルタルハウス」に住むようになって、N先生とのご近所付き合いも始まったようです。

 

私の両親は義務教育を終えただけの、教養もない、ただの田舎のりんご農家の夫婦でした。そんな未熟な二人を、N先生はご近所さんの若夫婦として可愛がってくれたようです。N先生ご夫婦には、家族ぐるみで本当にお世話になっていました。

私の小学校の入学式の時、母はN先生から着物の着付けをしていただきました。その時撮っていただいた白黒写真が母のアルバムかどこかに残っていて、まさに馬子にも衣装で、きちんと整えれば(笑)、母は若い頃綺麗だったんだなぁと思いました。今は完全に”トトロ”化していますが。ああ。

N先生のお料理

りんごの収穫の時期に、N先生にりんごをお裾分けしていたのもあってか、よく夕飯のおかずのお裾分けにあずかってました。

料理の先生と慕われたN先生の作られるお料理やお菓子は、とても美味しかったです。

我が家から山菜やきのこ、あるいは到来物の魚をN先生にお裾分けすると、美味しく調理されて、またお裾分けで帰ってきたりすることもありました。

農作業で疲れて帰ってきて、家事や子育てもしていた母にとっては、N先生は隣人以上と言ってもいいくらいの存在でした。

 

N先生のお宅の居間は、テーブルと椅子が置かれた南向きのリビングダイニングでした。

隣のキッチンとの間に作り付けの食器棚があり、リビングとキッチンの双方向からガラスの引き戸を開け閉めできるようになっていました。

間仕切りとしても機能している食器棚は、その当時としてはモダンな作りに見えました。『暮しの手帖』に出て来そうな雰囲気でした。

でも、残念ながら私が通されたことがある部屋はリビングとキッチンのみでした。

煮こごり事件勃発

さて、私が小学4~5年生の頃だったでしょうか。

夕方に先生から夕飯のおかずをもらいに来るようにと電話がありました。今日は何をもらえるのかな~♪と、いそいそとキッチンのあるお勝手口に出向きました。

「ちょっと味見してみる?」と渡された「おかず」は、見たことのない代物でした。

それは「煮こごり」というお惣菜でした。

綺麗に四角く切られた寒天の中に、煮崩れた何か魚のような、サバ缶のサバのような物が閉じ込められていました。

期待しつつ初めて食べたその味は、かなり魚臭くて「ウエッ」となる、まずい味でした。N先生からいただいたお料理の中で、初めて飲み込めない物でした。

子供ながらに私は先生に忖度して、口では「美味しい!」と言いましたが、飲み込もうとするとまた吐きそうになりました。

何かちょうどいい入れ物はないかな~、とN先生が後ろを向いたすきに、私はその「煮こごり」を手に吐き出しました。

裏に流れている川に捨てるのも気がとがめ、私はその煮こごりを、はいていたGパンのお尻のポケットにしまいました。

その時もし川に捨てていら、その「煮こごり」のことは記憶に残らなかったと思います。

家に帰ってすぐ、煮こごりをポケットから取り出しましたが、ぐずぐずになったそれは見るも無残でした。そして魚臭いにおいの移った、ポケットがビチャビチャのGパンも無残でした。

それ以来、「煮こごり」というワードを見るたびに、ポケットにしまったN先生のおかずのことを思い出します。これが「煮こごり」をポケットにしまった話です。おしまい。

「りんご君」の色を復元してみました

apple のカラー化再現

ChatGPTにお願いして復元した画像

ChatGPTのスゴさを実感

二日前に投稿した「りんご君」の写真。

令和の時代には、逆にモノクロ写真がエモいかも…ふふ、と思っていました。

でも、ふとした瞬間「待てよ、ChatGPTを使えばカラーで復元できるのでは?」と、やっと気づきました。そのアイデアが浮かぶまで2日かかりました。

この薄ぼんやりなところが「昭和生まれの私の限界」です。

ま、何はともあれ善は急げ?で、やってみた結果がこんな感じです。

冒頭の写真の前にもう一段階ありまして、前後しますが下の写真が最初の画像です。

最初に書いたプロンプト

【1st プロンプト】

りんごの色は黄緑です。スクーターの色は茶色に近い赤色です。履いている靴は薄いピンク色です。ほっぺも薄いピンクです。舌もほっぺと同じ薄いピンクにしてみて下さい。一回試しに色をつけてみて下さい。

【結果】

プロンプトを入力して、5分くらいで色が付きました。スゴ!

全体的に色が濃く出ました。本当は荷台の色も赤い色でしたが、「POST OFFICE」の可読性が悪い所に注目してしまって、荷台の色が赤くないのを見落としました。

ハガキの宛名の文字化けや、郵便番号の枠線も不可解な数字に文字化けしているのがご愛敬です。

最初に出てきた画像

最初に出てきた画像がこちら

次に書いたプロンプト

【2nd プロンプト】

黄緑をもう少し薄くして下さい。あと、ほっぺと口の中のピンクを今の靴の色と同じ位薄ピンクに。靴の色ももっと白っぽいピンクにしてみて下さい。スクーターの色は実物に近いです。でも荷台に書いてあるPOST OFFICEの文字が読める位に薄くしてみて下さい。

【結果】

それが、冒頭の写真です。

 

何という時代になったのだ!と、いまさらながらに思いました。

テレビのドキュメンタリー番組などで、古い時代の白黒写真をCGでカラー化したようなのを見たことがありましたが、それが個人の自宅で、しかも無料でできる時代になったのですね。

たまげました。

また何か実験したら、ブログで報告したいと思います。「六十の手習い」とは、まさにこういうことなのかもしれません。笑。

curiousな還暦女が現場からお伝えしました~。

「グリーンアップル大使」に便乗して

りんご君1

「あっぷる通心」のアイキャッチキャラクター


あのMrs.GREEN APPLEが「グリーンアップルの産地を盛り上げたい」と日本を代表する二つのりんご産地・青森県と長野県と公式にコラボすることになり、「グリーンアップル大使」に就任したそうです。ちなみにキーボードの藤澤さんは長野県出身。

青森県にりんごの苗木が来てから、今年でちょうど150周年。そしてMrs.GREEN APPLEは結成10周年だそうです。

元々りんご作りではライバル同士とも言える両県ではありますが、「グリーンアップルの産地を盛り上げたい」とのミセス側からの申し出に、三者がコラボしたそうです。

全りんご生産量の1割に過ぎない「青りんご」の消費拡大やイメージアップを図るのに、このたびはすごい援軍を得たものだ思います。

ボーカルの大森さんは、実はりんごアレルギーというオチもつきましたが、この周年記念の収穫の秋に、グリーンアップル大使として「青りんご」の魅力とおいしさを全国に発信してくれそうです。

https://mrsgreenapple.com

 

このことをニュースで知った時、そういえば遠い昔、私も青森と長野を「りんご」でつなぐ仕事に少しだけ関わらせてもらったなぁと思い出しました。

そしてその時に作った人形の写真をブログにあげてみようかなと思いました…って、完全にミセスに便乗しているわけですが。てへ。


「アップルレター」のこと

今は昔、青森県の東奥日報社と長野県の信濃毎日新聞社で「あっぷる通心」という共同企画が開催されたことがありました。もう30年以上の前のことです。


りんごの二大産地として有名な「青森」と「長野」の地方新聞社がコラボして、両県の交流をはかるため、りんごにまつわる思い出やエピソード、りんごに関する質問や疑問を読者に募集しました。

 

当時は、今のようにSNSはありませんでした。だから「アップルレター」という名の、リアルな「手紙」や「はがき」での応募を、両県の読者に呼び掛けたのです。古き良き時代の話です。

 

企画の告知と募集の掲載日は、1993年(平成5年)の3月31日。32年前!です。

集まったはがきや手紙は289通。

一か月後の4月30日に、寄せられたメッセージや、質問に対する回答などが見開きで掲載されました。

お便りが採用された方には「テレホンカード」の記念品が進呈されています。

なんとものんびりしていた、いい時代です。

この写真について

東奥日報社の広告局から依頼を受けた私の会社。

この写真のりんごは、その「あっぷる通心」のアイキャッチとして作りました。特に名前はつけなかったので仮に「りんご君」とします。


新聞広告用に作ったので、残念ながら白黒写真しか残っていないのですが、偶然、このりんご君は「グリーンアップル」に作っていました。

 

冒頭の写真の他に「りんご君」をポストマンに見立て、赤いスクーターに乗せたバージョンも撮ったので、りんごまで赤くすると新聞に掲載した時に彩度に差がつかないのでは?と思い、あえて青りんごにしたのです。

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赤いスクーターに乗った青りんご君

当時、写植を担当していた会社の上司に写真を撮ってもらい、現像・引き伸ばしまでやっていただきました。会社には小さいながらも、現像液の酸っぱいにおいが立ちこめる暗室もありました。今から考えるとガチのアナログ時代です。

 

まだデジカメもない時代でしたし、私自身も携帯電話はおろかPHSすら使っていませんでした。会社がMac導入前でしたので、版下作りはまだ完全に手作業の時代。

今の世だったらスマホでカラー写真もサクッと撮って残しておいたのになぁ。

とは言え、会社の上司に撮影していただいた写真とは別に、自分が持っていたコンパクトカメラで試しに写した写真も残っていました。でもそれも白黒でした。あの当時、モノクロ写真を撮ることにハマっていたんです、私。もう、何やってんの!笑。

apple-4

実家で採れた本物のりんごと写してみた「りんご君」

人形の仕様と作り方など

りんご君の本体部分は直径10㎝位の球形の発泡スチロールです。手芸店で買いました。

①その頂点を本物のりんごさながらにへこむように、いい感じに丸くそぎ取ります。

➁何とな~く本物のりんごに近づくように気長に紙やすりでこそげて形づくりました。

③できた発泡スチロールのりんごにジェッソで地塗りをし、アクリル絵の具で黄みどり色に彩色。りんごのヘタは本物のりんごから取って差し込みました。

④顔のパーツは色画用紙で作り、のり付け。

⑤手脚は、径が太くて柔軟性のあるアルミのワイヤーを使っています。
手の指は同じアルミのワイヤーを使い、短く切ってテープで組み合わせて固定してからジェッソにドボンと浸した記憶があります。

⑥靴は石粉粘土で作り、ジェッソを塗ってからアクリル絵の具で薄ピンクに彩色しました。

⑦座っている切り株の切り口には黄土色を塗り、茶色で年輪を描きました。

⑧発泡スチロールの切り株から伸びている新芽は、実家のりんごの木からもいできた、本当の枝と葉を使いました。

りんご君が持っているはがきの郵便番号の枠が5桁なのが「時代」を感じさせます。
郵便番号が7桁になったのは1998年(平成10年)2月2日からのようです。

その頃の私は

私は「アップルレター」の前年の、1992年(平成4年)の秋から、その会社の制作部に中途採用されました。デザインに関しても素人同然でしたけど、面接を経て何故か採用されました。

先輩デザイナーから版下の作り方を教わり、主に新聞広告を制作する仕事をしていました。新聞の広告はほぼモノクロの世界。だから写真もモノクロで撮っていたのです。

私の仕事は、夕刊に掲載される5段4分の1サイズや2段4分の1サイズの小さい枠の広告が主でした。でも元々が飽きっぽい私には、毎日違う業種の新聞広告を考えることが出来るこの仕事がとても楽しかったのです。

広告のラフを鉛筆で描き、写植の書体やサイズを指定すること。時には筆を使って文字を書いたり、線を描いたりすること。

自分の趣味や、それまでやってきた好きなことがこの仕事には活かされました。

そして自分が作った仕事が印刷され、新聞に掲載されることがなにより面白い経験でした。

 

仕事によっては、徐々にアイキャッチ用の立体作品やペーパークラフト、切り絵なども作らせてもらいました。

まだ時代に余裕があったので、自社にイラストレーターもどきを抱えるような、採算度外視の非効率なことができたのだと思います。

いわゆる「失われた30年」の初期の頃でしたから。


他のスタッフの協力があって、版下作業の合間だけでなく、何日も立体作品をだけを作っていることもありました。それがどれだけラッキーなことだったか、その頃はあんまり深くは考えていませんでした。

作った物についても、きちんと日付と共にファイルしたり、記録などを取っておけばよかったのに…、と今の自分なら思います。

さて、この「りんご君」はいまいずこ。

実は実家から過去作品をまとめて秋田の現在の家に連れて来た時に、これは写真が残っているからもういいかな?と廃棄してしまいました。チ~ン。合掌。

「かくは」の包装紙

包装紙全形

「かくは宮川デパート」の包装紙

これは昔、弘前市にあった「かくは宮川デパート」で使われていた包装紙です。

「かくは」と言えば、ある年代以上の人には懐かしい思い出の詰まったデパートかと思います。

この包装紙は、実家の母が昔使っていた、昭和の古い編み物の本から出て来ました。しおり替わりに使っていたと思われます。

何かメルカリで売れそうな珍しい本はないかしらと探していた時に見つけ「わっ、懐かしい!」と思って、もらって来ました。

断捨離ブームの昨今、物を捨てられない母と娘(←私)が「奇跡」を見つけました。笑。

包装紙から得られた情報

スタンプ画像

包装紙に押されているスタンプ


包装紙には当時の日付のスタンプが押してあって、48.12.15となっています。昭和48年12月15日です。今から52年前、私が小学校3年生の冬です。古ッ!

それにしても何で日付のスタンプが押されていたのか。この引合って何?謎です。

他にセロハンテープの糊の跡が茶色く残っています。

包装紙の折り目が18㎝×10㎝×1㎝位なので、箱に入ったハンカチなんかをもらった時の包装紙だった感じでしょうか。

津軽にとっての「かくは」

かくはロゴマーク

「かくは」のマーク

「かくは宮川デパート」の創業は1923年(大正12年)だそうです。

創業当時は「宮川呉服店」として開店され、後に正式にデパートとして営業された「かくは宮川デパート」は、言うなれば弘前の「三越百貨店」と言ってもいい位に格式も高く、客を集め、地域の人々に愛されていました。

ちなみに私を含め津軽では、中の「く」を濁って「かは」と発音していましたけど。津軽や東北ではありがちな濁音化ですね。

「かくは」については、他にも書きたいことがありますので、いつか改めて。今回は包装紙のことを。

「かくは」の包装紙についての考察

「三越百貨店」のサイトによると、あの有名な包装紙「華ひらく」は猪熊弦一郎氏という洋画家の方がデザインされて、筆記体のmitsukoshiの文字を書いたのは、当時三越百貨店の宣伝部で働いていた、あの「やなせたかし」さんなのだそうです。

朝ドラ「あんぱん」の中で、【三星百貨店】の新しい包装紙について、その実話に基づいたエピソードがありました。

洋画家の猪俣先生のデザインに、北村匠海さんが演じる嵩が、筆記体でmitsuboshiと書くシーンです。

それを踏まえて、いまどきするか?って考察ですが…。

かくはロゴ

かくは宮川のローマ字筆記体

「かくは」の包装紙が赤一色なのも、筆記体でKakuha Miyakawaと書かれているのも、「三越」のイメージにあやかりつつ、「三越」に対するオマージュがあふれ出たデザインだったかと思います。ま、パクリっぽいと言えないこともないですけども…。

デザインのモチーフ

「三越百貨店」の包装紙は、洋画家の猪熊氏が海岸で拾った二つの石のフォルムから着想を得たと言います。

一方、「かくは」は弘前を象徴する「りんご」「桜の花びら」と「雪の結晶」をあしらっています。

りんごや花びらの外側に向けてグラデーションをかけて、ほんわかと柔らかい感じにしたかったのだろうと思います。

城下町・弘前にある、創建当時は「東北初の鉄筋コンクリート建築」だった百貨店。

包装紙も、日本を代表する老舗の百貨店に負けじとデザインされたのだろうなぁと想像します。このデザインがやがて古くさく感じられた時代があったかもしれませんが、いまなら一周回って「昭和レトロ」っぽくて、可愛い包装紙だな~と思います。

当時、このハイカラな包装紙に心を躍らせたであろう津軽の人々が偲ばれます。

ヤフオクで発見!

ちなみにネットで「かくは宮川 包装紙」と検索してみたら、ヤフオクで包装紙の全形?が出て来ました。私が持っている物より古い時代のデザインかな?と思いますが、120円!で落札されていました。売る人も、買う人もいるなんて驚きました。

そして昭和レトロな包装紙の需要が他にも沢山あるということを、検索きっかけで初めて知りました。紙ものコレクターの世界も深そうです。

この世は知らないことばかりです。

ガチョウの「ガーコ」のこと

子供の頃に、ペットとして飼っていたガチョウのお話です。ガチョウの写真がないので、手持ちの色画用紙で切り絵を作ってみました。

ガーコのイメージイラスト

ガーコのイメージ画

 

そもそもの出会い

今は昔、私が小学校に入学した1971年(昭和46年)の話です。

ある日、父がどこからか一羽のガチョウをもらって来ました。幼鳥ではなく、成鳥でした。

鳴き声がガーガーとやたらうるさかったので、名前は「ガーコ」に即決。
いま思えば、コブが大きいガーコは〈オス〉でした。
多分、オスでもメスでも名前は「ガーコ」になったと思いますけれど…。

父は早速、「ガーコ」のオリを作りました。
りんご箱や農機具を収納するための粗末な小屋(←ワラの土壁)の外壁の一角に、目の荒い金網で囲っただけの、ちんけなオリでした。しかも屋根は無く、完全に雨ざらしでした。

 

我が家に連れて来られたばかりの「ガーコ」は、人が近づくと頭を低くして威嚇してきました。

威嚇するガーコの画像

威嚇するガーコ

声はガーガーうるさいし、やたらメンチ切ってくるガチョウ。最初は怖いばかりでした。ま、ガチョウからしたら、人間こそが怖くてイヤだったかもしれませんが。

小学校入学当時

私は就学前は、近所の保育園に通っていました。

りんご畑の繁忙期は、あたりが真っ暗になるまで、私と四つ下の弟の二人のみが保育園に居残って、母の迎えを待ったこともありました。


ところが小学校に入ってからは、私は午後の早い時間には下校していました。親は家から離れた畑にいて、私はポツンと、一人さびしく留守番になりました。

それまでとは環境が大きく変わりました。
学校に慣れて、放課後に友だちと一緒に遊ぶようになるまで、ちょっと時間がかかった記憶があります。

だから、メンチ切って威嚇してくるような鳥でも、家に「ガーコ」がいるのが嬉しかったのです。

朝起きるとすぐ、「ガーコ」の様子を見に行って話しかけたり、その辺に生えてる草をあげてみたりして、すっかり私のおともだちになりました。

「ガーコ」も私に慣れて来たのか、前のように威嚇しなくなっていました。

衝撃の展開

そして、そんなある日のこと。
突然、その「事件」は起きました。
             
「ただいま~」と元気よく帰って来た私に、珍しく早い時間に家に居て、玄関まで出迎えて来た母が、沈痛な面持ちで言いました。

「ガーコ、死んでしまったよ」と。

「えっ!なんで~?」と涙がブワッと出てきました。

母によると「トラバサミ」(当時は使用できた)というワナを踏んでしまい、痛がって可哀相だったから、楽にしてやったとのことでした。
居間に入ってみると、伯父さんや父の友達たちが数人来ていて、ワイワイと盛り上がっていました。

私はガーコの死が悲しくて、すぐに自分の部屋に飛び込みました。そして当時買ってもらったばかりの二段ベッドの上の段で、ふとんにもぐっておんおん泣いていました。

少し時間が経ってから、そっと母が部屋に入って来て言いました。

 

「ガーコ、食べる?」

 

え? 信じられない衝撃の言葉でした。

「食べないっ!」
収まっていた涙が再びこぼれて来ました。

あの、居間に集まっているオヤジどもは、

ガーコ鍋をさかなに、一杯つけて盛り上がっていたのでした。

怒りが沸いてきましたが、苦情は言えませんでした。


後年、その一件は笑い話になりましたが、母によると「ガーコ」は最初から食べるために飼っていたのだそうです。んもう!
当時、何も知らない私に「ガーコ」の死を告知する役目を押しつけられた母。その時の気持ちはいかばかりだったでしょう?

でも、遠慮がちにでも「ガーコ、食べる?」って聞けるあたり、オヤジどもと大差ないような気もします。安い女優みたいな演技にはすっかり騙されましたけど。笑。

それにしても、ひどい大人たちです。子供のペットを「鍋料理」にするなんて。

伯父のこと

あの時、居間にいて酒を酌み交わしていた伯父には、狩猟の趣味がありました。ハンターの仲間たちと山に行って、ウサギやカモ、たまにクマなどを仕留めて解体し、食べていました。だから「ガーコ」の件も伯父が一枚噛んでいたのかもしれません。オリの中にトラバサミなんて最初から無かったし…。

この伯父たちの狩ってきた野生動物の調理法は、あきれる程に毎回同じで、獣の臭みを消すために投入した大量のニンニクのにおいが強烈でした。

なかなか噛み切れない、骨付き&少し毛も残っていたウサギ肉。煮込んで変な色になったクマ肉。ヤスコも食べでみろ、と言われてチビッと味見はしましたが、私には美味しいとは思えませんでした。

ただ、そうやっておすそ分けされた中では、「キジ」は旨味が別格でした。臭みは少なく、あっさりした味付けの方が、その旨さがわかりました。いわゆる、ジビエの醍醐味って、これなんだろうなといった味でした。

キジは明らかに、普段食べなれた鶏肉とは一線を画すものがありました。「ガーコ」の件では泣き腫らした私にも、忘れ難い味でした。

 

これが、ガチョウの「ガーコ」の思い出です。

 

…って、おいおい!いつの間にか主旨、変わってるし!

「ガーコ」の話を「キジ」の美味しさの話に収斂させていくとは…。

すまなんだ、ガーコ。
私もすっかり「ひどい大人」の側になってしまったようだよ。

黒バックのガーコのイラスト

ガーコの遺影