何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

自作「市松人形」その➁/修復編

制作から25年後の令和8年。人形をよく見れば、スタジオ撮影した真新しい頃とはいろいろと様子が違っています。やんぬるかな!笑。

令和8年の現在の人形

シルク製の帯揚げが劣化していたので、緑色の絞りの飾り布で代用しました。

後に廃業した青森・松木屋の「京都物産展」で購入してストックしていたものです。元々は子供用の日本髪の髪飾りでした。

全体写真前から

▲現在の人形の前面

背面写真

▲現在の人形の背面

顔だけ写真

▲メガネを外した人形の顔のアップ

頭部は石塑粘土で作り、その上からシルクの生地を貼って、胡粉を塗りました。

元々は白い生地だったのに、経年劣化で黄色っぽく変色しています。

口元が白いのは、唇に紅用の絵の具を塗る時に、生地に滲まないように、胡粉の上からジェッソで修正をかけた痕だと思います。

25年経って、肌の色の絹の生地は黄変したのに、口元の白い色がここまで残るなら、胡粉よりもジェッソを塗るべきだったのだと実証されました。涙。

糸の画像

▲当時使った白の絹手縫い糸も黄色に変色

鉛筆で描いた眉毛も薄く退色しています。白目と黒目はアクリル絵の具で描きました。

髪の毛は黒色の木綿の糸を使いました。かせ状になっている20番手の太口縫い糸です。参考にした本には「黒も」と書いてありましたが、検索しても出て来ませんでした。

その土田早苗さんの本『四季の手作り人形』には、目からウロコの画期的な髪の作り方が掲載されていて、その手法に感動してその本を購入した記憶があります。

上の写真の人形の髪はボサボサですが、土田さんの本に掲載されている写真の髪は、もちろん綺麗に揃っていますよ。

もげた小指の修復

小指の写真アップ

▲もげた左の小指。手の表面の胡粉もひび割れて…。

結婚して、婚家に人形を連れて来てから、親指を除く左手の指先が全部もげたのを発見し、瞬間接着剤で直した記憶があります。テキトー!

指全体の付け根のひび割れはその時の名残です。

そして今度は知らぬ間に、小指だけまたもげたらしく…。もげた指先は行方不明になってます。

ブログで紹介するこの機会に、石塑粘土を盛って修復します。

ラドールと人形

着物を脱がせた人形と石塑粘土「ラドール」

 

親指以外の、一旦もげた指全体を覆うように粘土を擦り付け、小指の分も新たに多めに盛ってみました。粘土は一日放置したら乾いて固くなりました。

修復中の写真

▲多めに粘土を盛ったところ

 

息子の小学生時代の彫刻刀を使って、盛った粘土を削り、指を削り出しました。

間に合わせの粗削りです。指がないよりはいっか、って感じの完成度です。

削り出した指

▲削り出された新しい指

修復部分に水をつけて、表面をなめらかにします。

指の修復でなめらかに

▲水を塗ってなめらかにした指

乾いたら、紙やすりをかけてより滑らかにします。

 

25年前は最後に胡粉を塗ってより綺麗な肌にしましたが、今回はそこまではしません。

当時使った「チューブ入りの胡粉」の残りがありましたが、フタにニカワがびっちりついて開かないので。中の胡粉はまだ柔らかそうですが、出すと面倒だし。笑。

ニカワチューブ画像

当時使ったの胡粉チューブの残り


次回は着物を脱がせた人形本体を紹介する予定です。

自作「市松人形」その①/紹介編

2002年(平成14年)の午年の年賀状向けに、2001年の暮れに作った市松人形を紹介します。

まさに馬子にも衣裳?

市松人形写真

午年の年賀状用に作った 市松”ヤスコ”人形

24年前の午年の年賀状用に、2001年の暮れに初めて市松人形を作りました。

土田早苗さんという人形作家の『四季の手作り人形』(世界文化社/1997年刊)という本を参考に、自分なりにアレンジを加えて制作してみました。

 

2002年の春が終わる頃に、私は結婚する予定となっていたので、「夢の寿退社」を見据え、予告的に「馬子にも衣裳」というラベルを作って貼ってみました。

超なが~い独身時代にピリオドを打てたので、浮かれていたのかもしれません。笑。

この作品で、年賀状用にオリジナル人形を作ることは最後になりました。

 

この写真は、いつもお願いしていた青森市のコマーシャルフォトスタジオ「スタジオクルー」で撮影していただきました。

http://studiocrew1193.web.fc2.com

 

例年とは違い、早めに人形を作り終えたので、この年はスタジオ撮影に立ち会えました。毎年人形の完成は、本業の仕事も忙しい年末の、ギリギリの時期に重なっていました。最後の年くらい頑張らないと、と余裕を持って完成させた記憶があります。

出来たばかりの人形をサクッと撮ってもらった冒頭の写真が、一番いい状態の時です。

現在はこんな感じです

市松人形の現在写真

他の人形たちと一緒に置かれている現在の人形

 

私は、実家がビンボーだったので、ひな人形を買ってもらえませんでした。

その代わりとして?私は自作のこの人形を婚家に連れて来ました。その位思い入れがあったのです。

今回改めて見てみたら、人形は手をケガをしていたり、正絹?の帯揚げが朽ちかけていたり、顔に塗った胡粉が変色したりと、散々な感じになっています。

知らず知らずのうちに、四半世紀も経ってしまいましたので…。ま、私本体も同じようにあちこち朽ちていますが…。笑。

 

ケガを修復しつつ、次回からは人形や着物の構造、着物の材料となったちりめんの風呂敷のこと、人形を作るために「松木屋・京都物産展」で購入した、マニアックな「握り鋏」の紹介などをしていきたいと思います。

うちにはサンタが来ないのを知っていた子供時代の話。

サンタクロースの写真

クリスマスを迎える頃に思い出す、子供時代のエピソードを書いてみました。

幼なじみのあっちゃんのこと

私の実家の近くに、中学校教師のご夫婦が住んでいました。お父さんは美術の先生、お母さんは英語の先生でした。

そのA先生夫妻には、私より2歳上のあかねちゃん(仮名)という一人娘がいました。ここから先は、彼女のことを「あっちゃん」と呼びます。

あっちゃんは、ジミー・ページ似のイケメンのお父さんにそっくりな美少女で、背が高く、賢い子でした。後に「薬剤師」になったくらい勉強もできる、完璧な女の子でした。

実家の母から聞いた話によると、あっちゃんは私の就学前から私に本を読み聞かせたり、折り紙を折ったりして遊んでいてくれていたのだそうです。残念ながら、その記憶は私には全くありませんが。

朝一番に私の両親が「ヤスコがいない!」と気づいて、もしかして…とA先生宅に行ってみると、既に遊びに行っていた、ということもあったそうです。放し飼いの犬みたいですが…。

今、私の近所に、子供のそんな友達が住んでいたとして、朝から来られたらソッコーで帰ってもらうと思います。笑。

 

私の中で、あっちゃんとの記憶がハッキリと始まったように感じるのは、私が小学校に入学してからだと思います。あっちゃんと登校班が同じになって、小学校に一緒に通うようになってからです。それは、今は昔の1971年、昭和46年のことです。古っ!笑。

あっちゃんのお部屋にあった物

当時、あっちゃんの部屋のスチール製の本棚には、子供向けの「世界の名作」の絵本がシリーズで20冊くらい、ずらりと並んでいました。

そして白い洋服タンスの上にはフランス人形と「リカちゃんハウス」が置かれていました。あっちゃんは「リカちゃん」ばかりではなく、たしか「いづみちゃん」も持っていました。笑。

あっちゃんと私の2ショット写真

あっちゃんと私。昭和46~47年頃。

【こども音楽館】のこと

そして気が付けば、ある時期から、スチール製の本棚には【こども音楽館】というレコードと絵本のセット全12巻と、赤と白のプラスチック製のレコードプレーヤーがのっているようになりました。

【こども音楽館】は1968年から1969年にかけて学研から刊行された、クラシックの名曲のレコードと、その曲にちなんだ物語の絵本がセットになった立派なものでした。

私はその絵本を見せてもらいながら、黒い「レコード」というモノがくるくる回転して、音楽を鳴らすのを初めて見ました。

ビンボーなりんご農家の子供だった私にとっては、「文明と文化」に初めて触れるような、輝くような体験でした。

「お父さんに買ってもらったの?」と聞いたら、あっちゃんはこう答えました。

 

サンタさんにもらったの。ヤスコちゃんもいい子にしてたらもらえるよ と。

 

「サンタさんにもらったの!?」とビックリして、うらやましく思いました。

でも、我が家には「サンタさん」は来ないだろうことを、私は何となく知っていました。家に帰ってから、母にその話を教えましたが、どんな返事が返ってきたかはもちろん覚えていません。笑。

でも2歳年上の頭のいいあっちゃんが、小学3~4年生の頃に「サンタにもらった」と答えたこと、そしてあっちゃんが本気でサンタクロースの存在を信じていたことが、その後、何年も記憶に残りました。サンタが何者であるかをわかってからも、ずっと。

親になった自分がいま思うこと

A先生夫妻はあの昭和40年代の中ごろに、「サンタクロース」のことを子供に信じさせるように、上手に子育てしたのだと思います。あっちゃんにはサンタがいるかどうかなんて、疑う気持ちなど微塵もなかったようでした。

一方、我が家では「クリスマス」とは、親に「サンタのブーツのお菓子」の様な、ささやかな物をおねだりできる時期、という認識でした。サンタさんから直接もらうのではなく「だってクリスマスだから」と、親から買ってもらうシステムでした。

そして昔、私がまだ保育園児だった時のクリスマス会には、最後に「サンタさん」が登場しました。私は「あの帽子からはみ出てる髪型に見覚えがあるぞ…あっ、給食係の阿保さん(←実名)だな?新しい長靴をはいている…」などと思っていました。

子供のくせに、現実的すぎて、なんだか悲しいぞ。笑。

伊坂芳太良の『ヘンゼルとグレーテル』

あっちゃんの持っていた【こども音楽館】の絵本の中では『ヘンゼルとグレーテル』が一番好きでした。挿絵は「伊坂芳太良」という、当時大人気ながら早逝したイラストレーターの絵でした。

描線は細く、髪の毛やまつげの表現が独特で、当時の60年代のテイストが感じられる繊細なイラストでしたが、なんとも言えない不気味で不穏な作風に見えました。

元はグリム童話なのですが、ストーリー自体も残酷で、絵も「不穏」ですから、何か見てはいけない本のように感じました。

深夜、口減らしのために、森の奥に子供を捨てる算段をしている継母と父親の話を、ドアの向こうでヘンゼルが聞いてしまう描写など、乾いていて本当に怖い絵でした。

幼かった私には、不気味な絵とストーリーがトラウマ級にインパクトを与えました。

それでも、何故だかその本にとても惹かれました。

ついに念願の本を入手!

私が結婚した前の年の2001年に、新宿高島屋で「幻の絵師 ペロ展」という伊坂芳太良の回顧展がありました。(伊坂さんは「Pero」という通称も使っていました。)
その展覧会で、【こども音楽館】の絵本と原画が並べて展示されていた記憶があります。

結婚後、ふと【こども音楽館】のことを思い出し、ネットで検索してみたら、ヤフオクに出品されていました。全巻揃いで1万円程で落札できました。

30年程の時を経て、改めて大好きだった伊坂芳太良の『ヘンゼルとグレーテル』を手にしました。高島屋で見た時以来の再会でした。

大好きだったあの本が、とうとう自分の物になったのです!

あっちゃんの部屋で見たこの絵本に対する自分の執着が、そこまでだったとは思いもしませんでした。

いま検索するとメルカリ等にも出品されています。とても探しやすくなりました。

その後のA先生について

今年、A先生夫妻のうち、お母さんがお亡くなりになったようです。

葬儀が終わってから、私の母が人づてに聞いたそうです。残されたお父さんがどうしているのかは、わかりません。元の家には誰も住んでいないようです。悲しいです。

亡くなる前は老人施設に入所されていたようですが、詳細はわかりません。親同士のお付き合いも疎遠になってしまったので。

放し飼いの犬のように、ガンガン遊びに来る近所の子供「ヤスコ」の来訪を、嫌な顔ひとつせず迎えてくれたA先生夫妻。家族の一員であるかのように、幼い頃の私をあっちゃんと一緒に遊ばせてくれて、快く受け入れてくれたことに、今更ながらに感謝の念がわきます。

一人娘のあっちゃんはずっと首都圏に住んでいます。私とは学力の差が大き過ぎて、高校進学の時点で完全に進路が別れて以来、次第に接点も少なくなり疎遠となりました。

彼女が薬剤師となり、大学時代の同級生と結婚した最初の年に帰省した折、せっかくだからと彼女のお母さんからお呼びがかかり、お相手ともご対面。三人でスナップ写真に収まりました。

綺麗で立派に見えるあっちゃんに対して、私は気後れしてしまい、完全に「半見知り状態」になってしまいました。そして三人でスナップ写真を撮った時が、最後になりました。

あっちゃんは都会から三人の息子さんを連れて、夏休みごとに長期で実家に滞在したものでしたが、その時もやはり何となく気後れしてしまい、会いに行けませんでした。別に、いつもの「犬キャラ」で会いに行けばよかったのに、と今なら思いますが…。

ま、ご縁がなかったのでしょうね、残念ですけれど。 

私とサンタ、その後

子供の頃の私の家にはサンタさんは来ませんでしたが、私の子供たちの所には毎年サンタさんは来てくれました。そして親としても、サンタさんの「来訪の痕跡」に驚く演技をして、喜ぶ子供たちの笑顔を楽しませてもらいました。

サンタさんの存在を子供に信じさせることが、親としての醍醐味だったと思います。

「FUKUDA塾」1995・二戸の話/その④

第二回「FUKUDA塾」1995のワークショップについて、参加者に撮ってもらったスナップ写真と共にレポートします。この時作った私の作品は、残念ながら「大人の事情」で掲載不可です。

1995年のFUKUDA塾ロゴマーク

1995年のFUKUDA塾・オリジナルTシャツより

1995年の「FUKUDA塾」

資料になるスナップ写真を改めて探してみたら、なんとか出て来ました~。

今回の記事で紹介するカラーのスナップ写真は、95年の第二回に一緒に参加した「元友人とその友人」が撮ってくれたものです。

どーゆーこと?笑。

第一回のFUKUDA塾の開催を知った私は、申し込み期間が迫っていたので、可及的速やかに(笑)、私一人で参加したのですが、元友人からは「なんで誘ってくれなかったのぉ~!」と、マジで怒られました。で、次の年には誘ったら、一挙に二人追加になり、三人で参加することになりました。


今ではその二人とは音信不通となってしまいましたが(笑)、その時にスナップ写真を撮ってもらったことに、いま改めて感謝しなくてはなりません。

看板の写真

大広間の舞台前で撮影された記念の写真

この写真は、「緑風荘」の大広間の舞台の前で記念に撮ってもらった写真です。舞台の上に掲げられた看板に

1995 FUKUDA塾
造形をとおして学ぶ 生活文化の豊かさ 快適さ
塾長・福田繁雄先生 主催・二戸市・二戸市教育委員会

と書いています。

もはや記憶にありませんが、きっと94年の第一回開催時にもこういった看板はあったのかもしれません。立派な看板が掲げられていることから、二戸市の福田繁雄さんに対する敬意と歓迎の気持ちが感じられます。

95年に作った時計の説明

作業中のヤスコ

余分な部分をはぎ取る作業中の私(右)

こちらの写真は、座卓で集中して作業している時に知らぬ間に撮られた写真です。私は前年に参加して大体の流れがわかっていたので、作りたいデザインの下絵を原寸大に調整して、事前に準備して行きました。

準備したのは大好きなロイ・リキテンスタインのポップアート「M-MAYBE」のパロディです。著作権侵害になるので、完成した作品をブログに掲載することはできません。リキテンスタイン、M-MAYBE、等で検索していただけると、どの作品を元ネタにしたのか分かると思います。

プラス「時計の針をあえて10分遅らせて使用」という、謎の設定をしました。いわゆる細かすぎて伝わらない系のネタ、みたいな感じです。

実際の制作の手順

どのようにパロディにしたかを言葉だけで説明したいと思います。

①透明のアクリル板の表面全体に30×30㎝の黒いカッティングシートを貼り付ける。その上に下絵をスプレー糊で貼り、黒い輪郭線を切り出す。※上の写真は黒いシートの余分なところをはいでいる工程です。

イラストの目線の先は、時計の針を付ける左下に向ける。ふきだし内の文言を、M-MAYBE THIS CLOCK IS TEN-MINUTES LATE ! に改変。

和訳すると、「た、たぶん、この時計は10分遅れている!」です。

②黒いシートの不要な部分をはいだ面に、裏側から見えるように方眼紙をあてがう。アクリル板をひっくり返して、方眼紙を見る。(黒以外の色は全て裏面に貼る。)

シルクスクリーンで印刷された肌のドットを再現するのに、直径3mmの穴あけポンチでくり抜いた赤いカッティングシートの円を、方眼紙をガイドに規則正しく貼る。

③髪の黄色、階段の赤、窓や服の青を、アクリル板の裏面から貼る。

④全てのカッティングシートを貼り終わったら、裏全体に30×30㎝の白いカッティングシートを貼る。

⑤イラストの左下に開けておいた穴に時計の針をセットする。

…伝わったでしょうか?言葉だけだと難しいかもしれませんね。

原画のシルクスクリーンのドットを再現するのに、穴あけポンチで3mmの小さな赤い円を無数に切り出し、貼り付ける作業が大変でした。制限時間内で終わらせないと!と時間に追われ、焦りと闘いながら自分なりの「完璧」を目指してやってました。

ちなみに、作業に取り掛かる前に、事前に用意した下絵を福田さんに見せて「こんなの考えてきたのですが…」と一応見てもらったのですが、「決めて来たのならすぐにやりなさい」と言っていただき、ホッとしました。

すぐに取り掛かるように言われたのは、ドットの再現が大変そうだとの予測からだと思われます。実際、大変でした。

手伝いを拒んだ自分のこだわり

一緒に参加した友人が見かねて、ポンチで円を切り出すのを少し手伝ってくれたのですが、シートに対してポンチを垂直に当てていなかったので正円にならず、一部はラグビーボールみたいな形になっていました。涙。

私の「理想の円形」ではなかったので、内心イライラしてしまい、渡されたラグビーボール型のシートは貼ったふりをして、こっそり捨てたりしていました。←笑。

そして「やっぱ自分でやりたいから、手伝わなくていいよ~」とできるだけ角が立たないように、ソフトに断わりました。

でもそこから、ワークショップの終わりまで、ずっと微妙な空気になりました……。

他のことはどうでもいいゆるいタイプなのですが、こと自分の「創作」に対してはこだわりが強く、譲れないところもありました。ホント、面倒で嫌なヤツでした。

 

今の私なら「ダメダメ!これじゃ使えないよ~。ポンチは確実に垂直に当ててね!」などとハッキリと指摘しっちゃって、こき使って逆に離脱させそうですけどね。笑。

記念のスナップ写真

作業も終盤、そこにいた人々と記念撮影

この写真は一緒に作業していた方々と撮ったスナップ写真です。スタッフの和山さんもいらっしゃいます。


ちなみにこの年は、中学や高校で「美術」を教えている先生が多かった印象でした。弘前出身の女性の先生もいらっしゃいました。

このワークショップが終わってから、彼女らのお勤め先の高校の文化祭を見に八戸まで行ったり、宮城で教えていらっしゃる先生のシルクスクリーン作品の個展を見に、仙台のギャラリーまで行ったりしました。

今はない、フットワークの軽さ。若かったな。

自分の中の満足感

完成後、前年のように一堂に会して作者によるプレゼンと、福田さんの講評がありました。

私の作品に対して、福田さんからどんなコメントがあったかは、正直よく覚えていません。あっさりとした感想で、特に褒められたりしていないから覚えていないのだと思います。笑。ま、パロディ作品だったし。

でも、私としては何かよい評価をいただくよりも、自分の部屋にお手製のポップアートを飾れる喜びの方が勝っていました。改めて離れて見てみると、ドットはわずかにずれていましたが、時間をかけて懸命に作ったので、自分では満足しました。

この年のワークショップで、自分ができる全てを出し切った気持ちがあって、次の年の第三回「FUKUDA塾」には参加しませんでした。

二戸市シビックセンター「福田繁雄デザイン館」

この記事を書くために、2024年の冬に連絡をとった二戸市教育委員会の方からいただいたメールには、1999年に設置された「二戸市シビックセンター」のことが紹介されていました。二戸市の市民の交流促進と科学技術の普及啓発を図る施設のようです。

この施設の2階には「福田繁雄デザイン館」と呼ばれる、福田さんの作品を展示している美術館があるそうです。福田さんの想像力や発想の素晴らしさを体験できる施設となっているとのことでした。常設展と企画展を開催しているようです。

▼二戸市シビックセンター

https://www.nbsk.or.jp

問い合わせをした2024年の冬頃は、福田さんがデザインした食器やカップを展示する企画展が開催されていたようです。

ちなみに現在は、岩手を拠点に活動する三人の女性デザイン書道家による特別企画展「和文字力」という書道展が開催されているようです。2026年1月18日までの企画展だそうです。

いつの日にか、新生・「緑風荘」と、二戸市シビックセンター2階の「福田繁雄デザイン館」をぜひ訪れてみたいと思います。すっかりフットワークが重くなっていますが。

これで「FUKUDA塾」については終わります。

「FUKUDA塾」1994・二戸の話/その③

「FUKUDA塾」1994で、私の記憶に今なお残っている参加者やその作品、当時の緑風荘の印象についてレポートしてみました。常識の枠内では考えられない発想の時計も!

今も記憶に残っていること

時計を作る作業は、「緑風荘」の大広間に長い会議用座卓を並べて、座布団に座って行いました。テーブル2つを組にしたものが何セットも並べられ、1セット分を3~4人で使いました。

私のテーブルでは、八戸市在住の40代?の三児の母である陽気な女性と、八戸市出身で東京の某美大の四年生の男子学生さんと一緒でした。


その94年の時のスナップ写真は一切残っていないにもかかわらず、30年以上経った今でも、記憶に残っている作品や人物がいます。

特に印象に残っているのは、同じテーブルで作業していた美大生、小学校の先生をしているという若い女性、そして弘前市でプラスチックの金型を作っているという、ちょっと風変わりな男性の、三人の作品でした。

小学校の先生が作った作品

彼女の作品は、国語の教科書に載っているという「スイミー」という物語の一場面でした。彼女は赤いカッティングシートを小さな魚の形に切り、際限なく重ね貼りして大きな赤い魚の形を作っていました。

この物語は、仲間をマグロに食べられた「スイミー」という黒い魚が主人公です。赤い小さな魚の群れが協力して大きな赤い魚を形成し、最後に魚の目にあたる部分を黒い魚の「スイミー」が担当してマグロを追い払う、というのがあらすじです。

彼女はそのクライマックスシーンを時計の文字盤の上に再現していました。

実は私はその時に「スイミー」を知らなかったので(笑)、彼女が何を作っているのだろう?と不思議に思って、率直に尋ねてみました。

そして、そんなお話があるんだ~!という驚きがあったので、彼女の作品を記憶しているのです。完全に私の無知由来の記憶の定着ですね。

※ちなみに後年、私の子供が小学生の時の国語の教科書にもレオ・レオニ作の「スイミー」が掲載されていました。教科書を見て、今度は逆に彼女の作品のことを思い出したりしました。

美大の学生さんの作品

同じテーブルの斜向かいで作業していた、東京の某美大生の彼が受け取ったアクリル板も「半透明」でした。

でも「半透明」のアクリル板に対して、私とは発想が全く違いました。

黒いカッティングシートを貼った方を裏面とし、作品は表面から見るスタイルで作っていたのです。

裏面に丁寧に貼った黒いシートは、表面から見るとグレーに映り、半透明であることが効果的に活かされていました。そういう使い方もあるんだーと、意表を突かれたような気持ちでハッとしました。

彼の作品は、人の形をした角ばったロボットの上半身のようなデザインで、一部にポイント的にショッキングピンクのシートが貼られていました。ショッキングピンクのシートはハートの形だったような記憶があります。

BARの看板にしてもいいような、センスのいい作品でした。

また、彼が実際にカッティングシートを切ったり貼ったりする作業の前に、鉛筆でささっと描いたデザイン案が、十何パターンもあったのには驚きました。

初日は、全くカッティングシートを切ることもなく、下絵の構想のみであったと思います。そしてそのことに驚いた記憶があります。寡黙で、思慮深い感じがする人でした。

風変わりな男性の作品

プラスチックの金型を作っているという、ちょっと風変わりな雰囲気の男性は、長い脚にデニムの超ミニ丈の短パン姿で、失礼ながらなんだか一人だけ異質なオーラをまとったような存在に見えました。

夏の暑い盛りでエアコンもない状況でしたから、リラックスできる涼しい格好で臨んだのかもしれません。総じて、人目を気にする様子が微塵もない、わが道を行くスタイルに見えました。

全く知らない人でしたが、同じ「弘前」からやってきた「仲間」とは思われたくないかも…と思い、あまり関わらないようにしていましたが(笑)。

ワークショップの記録を残すためか、二戸市の職員さんがビデオを片手に彼にインタビューしていて、とても長い間カメラを回していました。なぜそんなに長くしゃべる時間があったのか?

後で彼の作品を見てわかりました。多分、すぐに作業が終わったのでしょう。

大体の人が、渡されたアクリル板をそのまま使っていた中で、彼は「国旗」に近い比率にアクリル板をカットしてもらい、「ひのまる」の時計を作っていました。

①長針の先端が360度回転してできる円周の軌跡と同じ直径で、赤いシートを丸く切り、白いカッティングシートを貼ったアクリル板の真ん中に貼っていました。

➁白かった針そのものにも同じ赤いカッティングシートを貼り付けていました。

③遠目では、ただの「ひのまる」にしか見えず、何時何分なのか、時間は全く時間わからないという、ビックリ仰天のぶっ飛んだ時計でした。

自由奔放な悪ふざけのようにも見えましたが、どうもマジだったようです…。

福田さんの講評

最終日の午前中、皆が自分の作品を持ち寄り、大広間に集合して作者のプレゼンタイムとなりました。そして一人一人に福田さんから講評がありました。

私の作品には「本当の針のある部分の下地が、黒なのがいい。もし、お店で売ってたら買います。」と身に余るような感想をいただきました。普段、あまり人から褒められることも無かった私は、天にも昇る気持ちでした。

はるばる二戸に来てよかった~('-'*)と思いました。←単純。


そして問題の「ひのまる時計」の講評も、人様のことながら、忘れ難いものでした。

福田さんは「時間もわからない、役に立たない時計に見えるかもしれないけど、この人は実は凄い人ですよ。」と、おっしゃいました。

私が勝手に抱いた印象を打ち砕くかのような高評価で、これにもビックリ仰天でした。

デザインの専門家である福田さんには、普通の人には見えないものが見えている、とも思いました。この評価を聞いてたまげたことも、私にとっては大収穫だったような気がします。

失礼ながら、凡人にとっては、一見「無意味な悪ふざけ」のように見える時計は、実は既成概念を超えた発想だったのかもしれません。

福田さんの講評で記憶しているのは、この二つだけです。

後日談ですが、この風変わりな男性は、ワークショップの1~2年後くらいに青森県の東奥日報という新聞に載りました。公募などの上位入賞者の常連さんとして、写真付きのインタビュー記事で紹介されていたのです。その新聞記事を読んだ時、「あ、あの時の、あの人だ!」と思いました。やっぱ凄い人だった?ようです。

緑風荘のことを少し

素敵な温泉旅館に、生まれて初めて宿泊できたのに、どんなごちそうが出たか、すっかり忘れてしまいました。

でも、大広間で作業している時に午後のおやつとして、よく冷えたスイカが出たり、ゆでたてのトウモロコシが出たりして、参加者みんなで和気あいあいと食べたのがいい思い出として残っています。

二戸市教育委員会の計らいだったのかもしれませんが、お陰様で「おばあちゃんチの夏休み」みたいな、のんびりした時間を過ごせました。

「緑風荘」のレトロなタイル張りの洗面所も素敵でした。洗面所の蛇口も古い映画に出て来そうな趣がありました。

そして「座敷わらし」がいるという槐(えんじゅ)の間は、大広間に行く途中の左側にあって、大量のぬいぐるみや人形で飾られていました。確かにその部屋には何者かが「おわす」ような空気感でした。

薄い水色の絣のもんぺ?の上下をまとった女将さん、慎ましやかに働かれていた息子さんの、ホスピタリティーと笑顔が素晴らしかったのも、記憶に残っています。

不覚にもカメラの電池が切れていたせいで、自分の脳内の印画紙に焼き付けた当時の緑風荘の風景を、30年後の自分が今、なんとか思い出して書いています。

次回は95年の二回目のワークショップについて、触れる予定です。

「FUKUDA塾」1994・二戸の話/その➁

福田繫雄さんを塾長に迎え、開催されたワークショップ「FUKUDA塾」1994。与えられたテーマと材料の説明、実際に私が作った時計を紹介します。

 

テーマ「世界に一つしかない時計の文字盤」

ワークショップの参加者に用意された材料は次の通り。

①タテ30×ヨコ30センチ、厚さ3ミリのアクリル板。透明と半透明の二種類。
②色とりどりのカッティングシート。
③時計のムーブメント(針は白)。

これだけです。
これだけと言っても、色とりどりのカッティングシートを好きなだけ自由に使えるという状況はとてもエキサイティングでした。

アクリル板は透明のを使ってみたかったのですが、まごまごしていたら(笑)透明の板は先に無くなり、私がゲットできたのは半透明の白いアクリル板の方でした。

ちょっとがっかりしつつ、半透明でもできることに挑戦しました。

私が作った四分割時計

さて、私が作った時計はこれです。

四分割時計

私が作った時計(アクリルのスタンドは撮影用です)

福田繁雄さんの「だまし絵」のテイストとモンドリアンの「コンポジション」を意識した色味にしました。使う色数は針の白を入れて5色に。
そして、本物の時計のムーブメントを設置するのは左上の黒の部分にしました。

手順はこちら。

①盤面を四分割。そのうち、左上の黒の中心にムーブメント差し込み用の穴を開けてもらう。
②シートを並べて配色を考えて、黒・黄・青・赤のカッティングシートを貼り付ける。
③白い針の形を本物の針から写し取り、カッティングシートで偽物の針を三つ作る。影になる部分に丸く切ったグレーを重ねる(もっと暗いグレーでもよかったな)。

④それぞれ針の向きを考えて、別の時間に設定。バランスを考えてテキトーに配置する。

単純なデザインだったので、作業は思いがけず早く終わりました。ちょっと物足りなさも感じて、青のところに白いカッティングシートで自分のサインを入れました。

シートでサインを作った方法は、

①太いマジックペンで紙に筆記体でサインを書く。

➁①の紙をカッティングシートの上に貼り付けて、サインの外側をカッターで切り出す。以上。

白いカッティングシートで出来たサインを、ピンセットで青い面の下部に貼りました。

サイン

青い文字盤に貼ったサイン

もしも、最初から透明なアクリル板をゲットできていたら、透明であることを活かすような、全く違うデザインになっていたような気もします。

本意ではない、半透明のアクリル板という「しばり」があって、結果的によかったのかもしれません。

この中途半端な半透明のアクリル板を、カッティングシートで埋め尽くして消しちゃお!と思って、このデザインになったのですから。

優秀なアシスタントさん登場!


時計のムーブメントを設置する場所は、各々のデザインにより、参加者の自由でした。

「和山さん」という若いスタッフが、参加者の希望の場所に電動ドリルで直径5ミリほどの穴を開けてくれました。

福田さんの指示を受けて色々なサポートをしてくれていた和山さん。参加者の希望を聞いて、時計を取り付ける場所に電動ドリルで穴を開けたり、希望の形にアクリル板を切ったりと、寡黙にてきぱきと作業されているのが印象に残りました。

 

今はネットの時代なので、この記事を書く前に「二戸市 和山」で検索してみたらヒットしました~!
和山さんは「おりつめ木工」和山忠吉さんという木工の作家さんで、彼の作品紹介には面白いデザインの楽しい家具が並んでいました。

サイトによると「FUKUDA塾でアシスタントを務め、福田繁雄氏のトリックアート等の作品にユーモアを加えた現在の作品が誕生した」とのこと。

この方があの時、アシスタントをやられていたのです。

その後、あのアシスタントの時のように、こつこつと研鑽されたのでしょう。30年後の現在はすごいことになっていたのだなぁと、感慨もひとしおでした。

さっそく和山さんにメールで連絡して、この記事に登場させる許可を取りました。

興味のある方は、こちらをご覧下さい。

https://chukichi.com

 

福田さんから聞いたお話

私は以前から、福田繁雄さんのトリックアートやポスターが好きでした。

覚えている人がいないような超古い話ですが、久米宏さんがTBSのアナウンサーだった時の「ぴったし カン・カン」(←昭和50年代)で、何度か福田さんの立体作品が、問題として出題されていました。たぶんそれは、実際に街角に設置された福田さんのオブジェの「小型模型」だったと思います。

正面から見た時と90度角度を変えた時に見える形が違う不思議な作品に、当時テレビを見ていた私は、子供なりに驚きを感じて「すごい!」と福田繫雄さんのことを知りました。

そしてその後、私がまだ若者だったころ(笑)に、愛読していた光玄社の雑誌「イラストレーション」のno.31(←1985年発行)で「芸大旋風」という特集がありました。

当時、デザインの公募展の大賞を同時期に数人の芸大生が獲得していて、日比野克彦さん、内藤こづえ(現ひびのこづえ)さん、伊勢克也さん、タナカノリユキさん、藤掛正邦さんらが紹介されていました。

全くの門外漢の私でしたが、ミーハーなものですから、彼らの作品や才能に憧れてもいました。特に日比野克彦さんの段ボールの作品が好きで、作品集も買ったりしていました。(ちなみに日比野さんは1985年10月からNHKの『YOU』の司会をされていました。)

その当時、芸大で彼らの指導に関わっていたのが、福田繁雄さんとのことでした。

「イラストレーション」を読んでいた頃は、後に日比野克彦さんが東京芸術大学の学長になるとは、想像もしませんでしたけどね。時が流れました。

 

福田さんはワークショップの時に、日比野さんのことなど、色々なおしゃべりをして下さいました。ワークショップに参加した私たちは興味深々でうかがったものです。

そういったお話の中で福田さんは、自分が教員として学生さんに向き合う時は、積み重ねたデッサンの紙が、その人の背丈と同じくらいの高さになるような学生さんの作品しか見ない、あるいは見たくない、というような意味のことをおっしゃっていました。

ワークショップに参加しているような一般人に対しては、物腰は穏やかでフレンドリーでしたけれど、先生としては本当に厳しい方なのだなぁと思った記憶があります。

あと、私たち参加者が今後も何かをデッサンするような時には、必ず「実物」をよく観察して描くようにとおっしゃっていたのが、今でも印象に残っています。

次回、記憶に残っている参加者の作品や、当時の緑風荘の印象について書きたいと思います。

「FUKUDA塾」1994・二戸の話/その①

かつて岩手県二戸市「緑風荘」で三年連続開催された、世界的グラフィックデザイナー福田繫雄さんのワークショップ「FUKUDA塾」。1994年と1995年に参加した私が、30年の時を経て書いたレポートです。

FUKUDA塾ロゴマーク

福田繁雄氏デザイン・FUKUDA塾のロゴマーク

94年のTシャツ画像

1994年の第1回開催の時に配付されたTシャツ


いま、ネットで「FUKUDA塾」と検索すると、「福田塾」という学習塾が何件か出て来ます。これから書くのは、その塾とは全くの無関係です、念のため。

FUKUDA塾とは?

約30年前に、その名も【FUKUDA塾】というワークショップが、岩手県の二戸市で開催されました。またもや、今は昔の話で恐縮です。

【FUKUDA塾】は1994年~1996年の夏、お盆が来る前の週の土日を含む日程で、三年連続で開催されました。

会場は「座敷わらしの宿」で有名な二戸市金田一温泉「緑風荘」で、2泊3日の合宿でした。

「緑風荘」は不運にも2009年の10月に火災に見舞われてしまい、後に再建されたようですが、これはそのずっと前の古い建物だった時の話です。

ワークショップのお題

「世界に一つしかない時計の文字盤」を作る、とのお題で開催されたワークショップの講師は、「日本のエッシャー」とも称される、あの世界的グラフィックデザイナーの福田繁雄さん(1932年~2009年)でした。

福田さんのお名前を検索するといろいろな動画が出て来ます。

NHKのアーカイブスに「あの人に会いたい」という番組が残っているのを見つけました。File No.330です。短くまとまっていて、福田さんをご存じない方におすすめです。

https://www2.nhk.or.jp


二戸市は福田さんのお母さんの故郷だそうで、戦時中に二戸市に疎開したご縁もあって、ワークショップが企画されたようでした。 

緑風荘での集合写真

当時の緑風荘の大広間で撮った記念写真


この写真は1994年、第1回目に開催された時に撮影された記念写真です。前列の真ん中が福田繁雄さんです。

福田さんの隣のスーツの方は、当時の二戸市長さんだった…記憶があります。

福田さん以外の、参加者の方のお顔は隠しておきました。この中に私もいます。他に教育委員会の方や、サポートメンバーの方も一緒に写っています。

参加した人々のこと

このワークショップの参加資格は東北6県の出身者・在住者に限られ、総勢30~40人程の人数だったと思います。この辺の細かい記憶は定かではありません。

各県から、教師をされている方がたくさん参加されていた記憶もあります。

夏休み中の学生さんもいましたし、私のような会社員をはじめ、専業主婦の人もいました。老若男女・職業を問わずという感じでした。共通点はものづくりが好き、福田繁雄さんが好き、ということで集った感じです。

時計を作りながら、色々な人とお話しすることができました。

会場となった緑風荘の宿泊料と時計の材料費を含む参加料がいくらだったかは覚えていません。参加を呼び掛けた当時の新聞や、会場で各自に配付された印刷物や簡単な名簿などを残しておけばよかったなぁと、今なら思います。

後年、インターネットという「仕組み」ができて、自分がこの経験をネット上に投稿する未来が来るとは、想像もしなかったものですから、細かい紙類は全部捨ててしまいました。

このワークショップを知ったきっかけ

私の実家では購読していなかった「陸奥新報」か「デーリー東北」に、多分このワークショップの告知と参加者募集の広告が出ていたと記憶しています。

以前から、私が福田繁雄さんのファンであることを知っていた実家の母が、どこからか見つけてきました。グッジョブ!

もしかしたらその新聞は、魚屋さんか八百屋さんの包装用の古新聞だった可能性があります。開催の募集期間と締め切りに間に合ったなんて不思議なものです。運が良かったとしか言えません。

 

ちなみに今年の10月中旬、帰省の折に弘前市立図書館の2階調査室で、94年の「陸奥新報」の縮刷版の6月と7月を調べてみました。でもこのワークショップへの参加を募る広告や記事を見つけることはできませんでした。

だから母が見つけて来たのは「デーリー東北」だったと思います。

さすがに弘前市立図書館には八戸市に本社がある「デーリー東北」縮刷版はありませんでした。

二戸市教育委員会に問い合わせた経緯

さて、この【FUKUDA塾】のことをブログに取り上げてもいいかを確認し、許可を取るために、2024年の1月に二戸市教育委員会にメールで尋ねてみました。

なかなかご返答がもらえず、あきらめかけていたところ、少し遅れて許可のお返事メールが届き、ホッとしました。

「30年も前の当時のFUKUDA塾のことを知る職員も少なく、確認に時間を要した」とのことでした。そりゃそうだよな、30年も前ですもんね~。

その節はお手数おかけしました。

二戸市の教育委員会にメールを出して打診して、実際にこのブログ記事にするまで、2年近くかかってしまいました。書きたいことを書くまでの助走が長すぎました。

手元に残っている資料について

私は1994年と1995年の2回の参加でしたが、いまFUKUDA塾関係で手元に残っているのは、94年に写されたこの記念写真が1枚、自分が作った時計が2つ、参加者に配付された福田さんデザインのTシャツ2枚と、95年のテレホンカード1枚。

あとは、福田さんが当時使用されていた、とても奇抜で素敵なデザインの名刺と、第2回の95年に一緒に撮っていただいた福田さんとの写真です。他に、95年に写したスナップ写真が少々。

福田さんの名刺に驚いた理由

福田さんの名刺を掲載することはできませんが、言葉で説明するとこんな感じです。

透明の薄いプラスチックのシートの両面にそれぞれ白と黒で印刷されています。

日本語で名前と住所が印刷されている面はインクが黒色。裏面はアルファベットで名前と住所が印刷されていてインクは白色。

パッと見は可読性がよくないのですが、白い紙の上に黒い印刷面を上にして置くと裏面の白の印刷が消え、黒い文字が読み取りやすくなります。

ひっくり返して黒い紙の上に白い印刷面を置くと、今度は裏面の黒の印刷が消え、アルファベット文字が読みやすいという、ちょっとした仕掛けのある名刺でした。さすが、福田マジックです!

 

95年のTシャツ画像

1995年の参加者に配付されたTシャツ

95年テレカ画像

95年に配付されたテレホンカード

30年前の心残り?

初回参加の94年の時には、私が持参した一眼レフカメラの電池が不覚にも切れていました。カメラ用の特殊な電池だったせいで現地で調達できず。だから残念ながらスナップ写真は一枚も撮れませんでした。

30年たった今でもそのことが心残りですが(笑)、写真に撮れなかったせいで、却って今でも記憶に残っているような事柄もあります。

今も覚えている参加者や作品のこと、福田さんが語ったこと、また、自分が作った時計のことを、次回取り上げたいと思います。