羽子板を床の間に置いてみました。
このブログを書くにあたり、いま住んでいる婚家の床の間の、掛け軸の横に羽子板を置いて撮影してみました。
羽子板を作った時もそれ以前も、私の実家には【床の間】なんてものはありませんでしたので、羽子板の全形を自分で撮影したのは初めてです。
タマゴが先か?ニワトリが先か?
さて、年賀状には全くふさわしくはないモチーフとはいえ、巳年つながりで「娘道成寺」を題材に押絵の羽子板を作ってみたいと25年前の自分が思ったわけですが……。
「娘道成寺」の羽子板を作りたいと思ったのが先か、
羽子板を作るなら「娘道成寺」を、が先か。
今となってはどちらが先だったのか、わからなくなってしまいました。
きっかけになったある本との出会い
一昨年、実家の書棚から押絵の作り方の本を発掘しました。購入したのをすっかり忘れていた本です。
そうそう、羽子板作る時、この本を参考にしたんだよな、と思い出しました。
羽子板を作った当時は、弘前市内の実家から青森市内の会社にJRで通勤していました。会社と青森駅の間に、私にとってはトラップのように存在していた老舗の書店「成田本店」。通称「なりほん」。その本屋さんの手芸本コーナーにこの本はありました。
そして、90年代になりほんで買った色々な書籍がほぼそのまま残っている、実家の自分の部屋の本棚。
実家に帰省するたびメルカリで売れそうな本をその本棚から発掘して持って来ていたのですが、この本はノーマークでした。あることすら忘れていたおかげで、人手に渡ることを避けられました。
その本のタイトルはこれ!
羽子板から美人画まで
新装版「伝統の押絵をつくる」全作品原寸大 型紙付き
大越 喜園 著
マコー社
奥付は、平成9年5月20日再販発行となっていました。著者の大越喜園さんは明治37年生まれとのことです。
巻頭の推薦文はあの金田一京助さんで、(1961年記)となっていました。
金田一さんによると、著者の大越喜園さんは1950年頃から青森県の三沢市に住んでいて、7年間ほど米軍基地に住んでいた将校夫人たちに押絵の手ほどきをしていたそうです。奥付にある著者紹介によると、後にケネディ夫人やライシャワー大使夫人に作品を贈呈したこともあるそうです。ジャ、ジャッキーに?歴史上の人物登場!です。
第二次世界大戦が終結した数年後に、アメリカ人に押絵の作り方を教えていた日本人女性がいたなんて、今更ながらビックリです。やっぱ明治生まれの人はスゴい!
著者の大越さんは仙台藩士の家系で、藩の御殿に仕えていたというお祖母様から押絵を習ったそうです。
この書籍はもともとは、昭和に発行された古い本だと思うのですが、「新装版」と銘打って平成にも再販されていることから、「押絵の決定版」「押絵の教科書」ともいえる内容だと思います。
令和の今、アマゾンで検索しても普通に売っています。ちょっと前までは中古でしか出ていませんでしたが、今では新品を定価で購入できます。
私がこの本を購入したのは平成でしたが、昭和から令和に至るまで連綿と発売され続けて残っているのは、今でも一定数の需要がある良書だからだと思います。この本には
◆歌麿や写楽の浮世絵や大首絵の押絵
◆広重の東海道五十三次を題材にした押絵
◆竹久夢二の絵などを元にした美人画の押絵
◆歌舞伎を題材にした羽子板
その他、大越さんのオリジナルの絵による押絵作品がカラーで多数掲載されています。
そして、掲載作品の原寸大の型紙が三枚ついています。
この本には、押絵の用具、材料や、押絵についての解説と制作のプロセスが写真とイラストで詳しく載っています。伝統的な押絵をやってみたい人にはおすすめの本です。
私が作った羽子板は…
▲大きさが分かりやすいように、隣にスティックのりを置いてみました。
この本の中に「娘道成寺」と題した押絵と羽子板の作品が各1点ずつ掲載されています。どちらも歌舞伎などで有名な、烏帽子を付けて鐘供養の舞を披露する白拍子の図柄でした。
私の作った羽子板とは同じデザインではありません。私の羽子板は本に掲載された羽子板のデザインを組み合わせてアレンジしたものです。
マコー社にお問い合わせ
この本を参考にして作った個人的な作品を、ブログに発表してもいいのだろうか?と思い悩み、思い切って東京文京区にあるマコー社に電話で問い合わせてみました。
回答は、著者と書籍名を明記して、作品そのものを販売しないなら大丈夫です、とのことでした。ひとまず安心しました。
本の紹介はここまで。
次回は羽子板の調達について書く予定です。