何らかのオタク

何らかのオタクだけど、何のオタクなのかは未確定。

 「リスボンスバン」のこと

リスボンス盤画像

これが問題の【リスボンスバン】

この写真は 【リスボンスバン】を復元したものです。
今は昔、私が中2の時、つまり46年前(笑)の昭和54年、数学の時間に使用していました。
数学のE先生のご指導の下、各自一つ作るように言われたのです。

その謎の物体の命名者はもちろんE先生。

 

先生の意図をくみながら、正しく表記すると
【レスポンス盤】あるいは

【レスポンス板】
になるかと思います。
英語に訳せば【response disk】とでも申せましょう。

E先生のこと

E先生は、磯野波平を思わせる風貌で、昔のモノクロ映画に出て来るような雰囲気の人でした。

飄々とした所もあり、そこはかとなくペーソス漂う好々爺といった感じの、温厚なおじいちゃん先生でした。(※注:褒めてますから)

ただし、津軽弁のなまりがかなりキツく、多分、大正末期か昭和初期生まれの、定年間近の先生だったかと思います。それで【レスポンス】が【リスボンス】になったのでは?と推測します。今となれば真実はわかりませんが。

【リスボンスバン】の作り方

画用紙画像

今回〈復元〉に使った色画用紙

先生が生徒に作らせた【リスボンスバン】は
①画用紙で直径12㎝程の正円を三枚切る。
②半分に折った三枚を垂直に立ち上げ、半円同士になるようにそれぞれ糊で貼り合わせる。

立ち上げた画像

半分に折って90°立ち上げる

 

③パタパタと開いてできた三つの円の盤面を、それぞれ赤・青・黄と色鉛筆で三色に塗り分ける、というものでした。(ただし、今回の復元写真は色画用紙を使用しました)

数学の授業を一時間つぶして、コンパスとハサミ、糊と色鉛筆を使っての工作の時間となりました。

【リスボンスバン】の意義

何のために、E先生はその【リスボンスバン】をみんなに作らせたのか?
それはまさに生徒のレスポンス=反応を知るためでした。

完全に理解できた人は机の上で「青の面」を先生に向ける
自信ないかも…の人は「黄の面」を先生に向ける
全然わかりません!の人は「赤の面」を先生に向ける

そう、理解度の指標にするためのディスクだったのです。

赤の盤面画像

リスボンス盤/わからない時のアピール色

令和の今なら、個々の学習の習熟度を知るために、一人一台のタブレット端末を持たせて一括で管理できているかもしれません。
でも当時は、昭和54年。弘前市立第■中学校の二学年の何クラスかでは、E先生が工夫を凝らし知恵を使って、生徒らの習熟度を測ろうと試みていたのでした。

アナログな道具ではありましたが、実は先進的な取り組みでした。当時、そんな試みをする先生は他にいませんでした。思えば、いい先生だったなぁ。

E先生の得意技

先生はガミガミとは怒らない人でしたが、忘れ物や宿題をやってこなかったりなど、何か生徒を何か諫めるような時は「ペニシリン」という技を繰り出しました。
「ペニシリン!」と言いながら、二の腕をキュッとつねるという、今の時代なら完全にアウトっぽいですが、一つのコミュニケーションのような技でした。


当時は生徒の性別に関わらず、「ビンタ」をする体罰教師も普通にいた位ですから、「ペニシリン」なんて可愛いもの。やられた生徒もくすぐったくて笑っていましたし。
私も一度、ペニシリンやられたような…記憶があります。理由は忘れましたが、想像していたよりは痛くはなかったと思います。

E先生のキラーフレーズ

E先生は小柄で、声をあまり張らない、怒らない先生でしたので、授業中の教室は生徒の雑談でガヤガヤしていました。先生が一生懸命授業に取り組んでも、生徒の側は集中力を欠いていて、何となく数学の授業時間はいつもガヤガヤ。

そんな時、E先生は黒板を指し示し、津軽弁で「こぢ見れ」って言ってました。
共通語で訳すと「こっち見て」って感じです。
命令口調ではなく、お願い口調で尻上がりに「こぢ見れ」と言っていました。
この時の「ぢ」は、「ぢ」と「ず」の中間の発音になります。※急に、津軽弁講座。

先生が「こぢ見れ、こぢ見れ」って言わないといけない程、ほとんどの生徒は真剣に聞いてはいなかったと思います。
そして、ペーソスが漂っている波平さんそっくりな先生が「こぢ見れ」って言うからこそ、独特なおかしさがにじみ出てしまい、みんなクスクス笑っていました。

せっかく作った【リスボンスバン】の効果は不明のまま、先生は異動だったのか退職だったのか、新年度は学校から居なくなりました。
卒業アルバムに先生のお写真が残っていないのが、今でも残念です。

新たな数学教師登場!

新学期、代わりに来たのは、ごつい黒縁メガネの底に鋭い眼光の中年男性教師。大柄で声もよく通る、威圧感のかたまりみたいな先生でした。私にはそう見えました。
あれだけ言われても「こぢ」を見なかった生徒に、バチが当たったのかもしれません。E先生と正反対の先生をあえて投入したのかと思う位、何もかもが違いました。

それから数学の授業の時は、先生の大きな声が響き渡り、教室はシーンと静まり返っていました。

友人に確認して驚いたこと

私の中学校は、一学年が平均15クラスもあるような超マンモス校でした。一学年約600人。全校生徒が集まると約1800人でした。
職員室も学年ごとに分かれていて三つあり、教科の先生も学年に複数人いました。

この【リスボンスバン】のことを書くために先日、中2の時からの友人に、E先生って何組から何組まで教えていたっけ?とラインで尋ねてみました。

聞いてビックリ、彼女にはE先生の記憶は全く無いそうでした。
中学・高校の記憶はほとんど覚えていないのだそうです。

ちょっと驚いてしまいましたが、実は私の方が異常なのだな、と気づきました。笑。

E先生と【リスボンスバン】のこと、未だに覚えているの、この世で私一人なのかな?
ま、わざわざモノを復元する人は他にいないだろうな。

クラス会とか同窓会とか、誘われても行かないでいるうちに、とうとうお声もかからないようになってしまいましたが、このマニアックな思い出だけは誰かと語り合いたかったです。

 

ちなみに「レスポンス盤」でネット検索したら、出ました!ひょうたんから駒!

いわく、特許出願の拒絶理由通知に対する応答を、効率的に作成するためのソフトウェアを示すことがあります…云々だそうです。

んー、それとは完全に別物。全く無関係ですからね、念のため。